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時を経て 深みを増していくもの ー大人であることー

鏡を見て、自分の疲れた顔にショックを受けながら、身なりを整えて、家事などをして、再び鏡をのぞいたら、案外悪くない、と思った。動いている時の顔は悪くないものだと思った。

以前 「少年の心を持った人」の話を友人としていた。
友人は言った。少年らしさは、仕事のアイディアなどにつながる童心ならいいし、子どもの気持ちをわかってあげられるものならいいけど、なんだか、自分の未熟さを誤魔化すのに使ってる人もいるのではないか、と。

子どもは時として残酷なことを言う。他者のことを慮ることができないが故に。そういう想像力を持たない「少年らしさ」に、私も遭遇したことがある。人の心をぐさっと刺す、思いやりのなさ。そして、そのことに永遠に気づくことのできない未熟さ。

「年相応」はやはりあるのだ。
それまでに積み重ねてきた経験から 作り上げた価値観、信念。そういうものは、時として 若い人、後からくる人を導くことのできる、深みを持った言葉を生み出す。その言葉を生み出したことに伴う責任もわかった上で 発せられる言葉は、相手にももちろん、その言葉を口にした本人にもまた 新たな力を与える。

自分のした経験、感じたこと、それらをしっかりと噛み締めたことで生まれる言葉には、説得力がある。軽くない。浅くない。そして、不思議なことに、そういう言葉は、華やかさには欠けるというか、キャッチーなものではないのだ。静かなのだ。なんというか、そういう言葉を発することのできる人は、自分からそういう感じ(何かすごいことを私は言えるよ、みたいな)は出さないもので、でも、聞けば必ず 何かを、大切にしている何かを そっと教えてくれる。自分で考えれば、というようなことは言わないし、また 人の言ったことを茶化したり、突き放したりすることも絶対にしない。だから、周囲の人は、その人のことを心から信頼する。

そして、こういう人たちが信頼されるのは、またいろんなことに興味を持って、次々とチャレンジすることができるからだ。しかも謙虚に。
「それいいね。教えてもらっていい?」「この前、○○ということを教えてもらった。とても勉強になった」。ここでは、「少年らしさ」とか「童心」という言葉も使えるだろう。

そう、少年らしさとは、童心とは、
新しく出会ったことに心を動かすことができることであって、
想像力のなさから 何でもかんでも口にしてしまうことではないのだ。

私も童心を失わずに勉強を続けていきたい、という思いを、改めて強くもつようになった。年齢を重ねて、気づけば、仕事の中でアドバイスを求められることばかりになってきた。
もともと「アドバイス」をすることが多い、そういう仕事を私はしている。できるだけ誠実に対応したいが、なんせ 勉強が足りなくて、自分の納得できる答えが出せないことも少なくなくて、日々反省である。
どうすればいいか、それは やはり勉強を続けていくしかない。自分でやってみたことでなければ、それを力のこもった言葉に変えることはできない。

そして、勉強をするということが、それこそ童心を持ってこそできるもの、また童心を刺激してくれるものなのだ、知らなかったことを知る喜び、学んだことが繋がっていく喜び。喜びを持って知ったこと、蓄積していったことは、その人の言葉に深みを与えてくれる。

少年らしさ、子ども心
他者に対するナイフではなく、新しいことを知り続ける喜びとして、大切にし続けたい。

そして、人と接する時、自分が得てきたものを、責任感とともに、吟味した言葉を持ってそっと差し出すことのできる大人でありたい。大人になってきたということは、喜びという言葉だけでは表現し難い、悲しみや苦しみだって乗り越えてきたということだ。若くあることだけでは、できない何かがある、それが大人というものだろう。


童心を持って 知った喜びと、孤独の中で 噛み締めたもの、力としたもの、
それを そっと差し出せる大人でありたいと思う。

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