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何のために生きるのか

「自分は何のために生きているのだろう」

日々忙しさに追われている中で、ふとした瞬間、そういう疑問が頭に浮かんで、強い虚無感に覆われてしまう。

例えば、静まり返った夜だとか、通勤電車の車窓から、遠くの景色をぼーっと眺めている時だとか。
そういう何でもない時間のすき間から虚無はやってくる。

今年で27歳になる。

年齢を重ねるたび、1年という時間が何の重みもなく、一瞬で過ぎていくように感じる。

季節の変わり目に春の匂いがすると、今でも大学に入学した時のことをよく思い出す。

大学にいた頃、周りから感じた「有名企業に勤めて、年収1000万稼ぐのが偉い」みたいな価値観が大嫌いで、友達と交流せずに一人でいることも多かった。

でも社会のレールから外れるのも怖くて、どこかそういう価値観も自分の中にはあった。だからこそ自分の中の矛盾に気づいてからは、自分が嫌いで苦しかった。

フィリピンに留学中、21歳の時に鬱病になった。他人と比べることをやめられなくて、いつも優越感と劣等感の間で苦しかった。そういう自分が大嫌いで、いつしか自分で自分の心を傷つけるようになった。

日本に帰国後、医師に「躁うつ病」と診断された頃には、不眠と吐き気が24時間続いて、一日中頭から恐怖と不安が離れなくなっていた。気分の浮き沈みがジェットコースターのようになって、「もう二度と元には戻れない」と、本気でそう思った。

半年休学をして、病院で治療を続け、やっと自分が戻ってきた。その時優しくしてくれた友人には今でも心の底から感謝している。だからこそ自分の心の声に従って、本当に自分がやりたい事をやろうと考えた。

大学時代、とにかく英語がうまくなりたくて必死だった。入学した頃にはTOEICで400点程度の英語力が、卒業する頃には満点近くになっていた。

だから、大好きだった英語を仕事にしようと英語講師の道を選んだ。

でも現実にはうまくいかなかった。激しい労働環境、支配的な上下関係、何より恐怖で生徒に勉強させる文化にどうしても馴染めなかった。

今考えれば、自分にも悪いところや未熟なところはたくさんあったと思う。
でも結局1年で会社を辞めた。

何のために生きていくのかも、何を目標に、一体どこに向かって何を頑張ればいいのかも途端にわからなくなった。

誰かの近況報告を見る度に、焦りと悔しさとやるせない気持ちでやりきれなかった。一生懸命ひたむきに頑張ってきたはずなのに、なぜうまくいかないのか。なぜこんな風になるのか。
「こんなのは間違っている」と。

転職活動の面接で、「なぜ新卒の時に一流企業に就職しようとしなかったのか」という問いを何度もぶつけられた。そのたびに奥歯がきしむような気持ちになった。自分の道も切り開けず、社会のレールにも乗れなかった、中途半端な自分がそこにはいた。理由をうまく説明しようとしても、いつもうまく言葉に乗せることができなかった。言葉がただ浮わついて、相手に伝わっていかないのが自分でも手に取るようにわかった。理解してもらえないことが悔しかった。

結局、部品メーカーに海外営業の枠で転職できた。

ずっと住んでいた実家を離れて、東京で働いている。今の会社に勤めてちょうど1年になる。

最近、任せられる仕事が一気に増えて、朝7時に家を出て夜10時に帰宅するような毎日を送っている。

やはり英語は好きで、英語を勉強したり、読書したりして休日を過ごしている。

それでもふと「結局自分は何がしたかったのだろうか」「こんなことを繰り返して一体何の意味があるのか」そんな風に冷静に問うてしまう自分がいる。

これが本当に自分が望んでいたことなのだろうか、と。

自分が自分であろうとすることは難しいし、苦しい。

けれど、そういう苦しさを知っているからこそ、どんな人にも優しくありたいと思っている。どんな人であっても、困っていたら手を差し伸べたいと。

そんな世の中であってほしいなと思う。

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