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最後の学生街の喫茶店

 今時の大学はキャンパス内におしゃれなカフェがあったりする。でもよほど古くから街中にある大学でない限り、キャンパスの近辺には「サ店」がない。「茶ぁシバく」(お茶する)のも、「学校当局」の管理下にあるってことなのか。
 1980年代前半ある大学の喫茶店事情の話。私が学部生として在籍した南大阪にある大学のキャンパスは南北に細長く、北側には体育会クラブハウスが集住していて、その東門(通用門)前の道をはさんで一段低いところに、体育会の人々がたむろするサ店「LACOM」があった。
 筋肉質で体躯ががっちりしていた私は、入学式当日、アメフット部と日本拳法部に強引に(うち片方の部には後ろから羽交い絞めにされた。「荒い時代」ですね)拉致されかけた経験があり、この店にだけは入るまいと決めていた。時間が経ってから体育会の同級生と2・3度は入ったことがあるのだが、やはりというか何となくというか、居心地が悪かった。ちなみに再拉致回避のため、履修登録を除き大学には体育の残り欠席可能回数がギリギリになるGW直前まで登校できず、一人アパートで「赤い系統の」本をひたすら耽読していた。
 その店から80メートル程南下すると道の同じ側に、常連学生の所属が片寄っていない店「College」があった。しかし入口は中二階の奥まったところにあり、行きつけでないと入りにくい雰囲気がただよっていた。部に所属していない一般学生もいるにはいたが、4回生以上とおぼしき「謎の学生」がよくたむろしていた。
 そこからさらに100メートル程南下すると、文化サークル連合(以下文サ連)御用達の「Bell」があった。キャンパスの南側には文サ連に加入している文化系サークルの部室がまとまってあったため、彼らの格好の溜まり場と化していた。この店では毎日のように文サ連の運営方針やら、革命論やらが飛び交い、半日、いや、猛者などは一日を珈琲一杯で粘る面々がいた。もちろん話の「入口」も「出口」も左側であることは「予定調和」だったのだが…
 Bellママさんお気に入りアーティストは Fleetwood Mac。学生たちの議論が行き詰まったら、カウンター越しでキッチンの手を止め何気にアルバム 『Rumours―噂』にそっと針を落とし、再びカップを洗う…そんな粋なママさんが運営する、煙草の煙と議論が立ち込めるコーヒー専門店「Bell」。ここも馴染みでなければ入店しづらい店なのだが、紫煙をくゆらせ、70年代ロックを聴きながら小難しい本を長時間読むには格好の場所だった。
 体育会や文サ連に所属しない「低学年一般学生」は、キャンパス近くで時間を潰せる店がなく、珈琲を飲みながら寛げる場所は、軽食を提供する学内のキッチンカフェーしかなかったのだが、1981年秋、私が2回生時、上記3つの喫茶店とはロケ―ションを異にする、キャンパスを挟んだ正門側に「ハラッパ」という店が開店した。体育会の人々からの暗黙の圧力、文サ連からの「なんやコイツ」という目線から解き放される「解放区」ができたことが、たまらなくうれしかった。なにせ堂々とスポーツ新聞を広げて、紙面での扱いが小さな近鉄バファローズの記事の読み比べができたのだから。
 ところで同じ大学内で内緒につきあっている「アベック」は、まかり間違えてもこれらのサ店を逢瀬の場所とはしない。最寄駅の商店街アーケードを越えたパン屋の2階にある、外装、内装そしてメニューさえもお洒落な「薔薇屋」が御用達だった。ここは多少小(こ)洒落(じゃれ)た格好をしていないと入店するにはためらいが生じる場所なので、デートを決め込んでお洒落をしているアベックの語らいの場所としては穴場だった。しかしてジャージ姿の体育会、ファッションに無頓着な文サ連の面子はほとんど見かけることはなかった。
 時はバブル期以前のこと。たかが喫茶店というかもしれないが、学生街の喫茶店の常連客は小集団というかサブカルチュア毎にセグメントされていたのだった。
 イケイケドンドンの高度成長が終わり、浮足立ったバブル期のはざまのこの時代の日本社会は「内向き」とでもいうか、身近な人とのつながりを希求するという「コミュニティ的な存在」が重視された時代だったのかもしれない。学生街ならずとも街中の喫茶店に目を向けると、それぞれの店のマスタア、ママさんの趣味嗜好に共感を持つ常連客が集い、野球チームができたり、そこで知り合った音楽の嗜好が合う者同志でバンドを結成(時にはその店でミニライブを開催)したり、キャンプや旅行を計画したり。ビビッドな地域の情報が集積し、小集団が形成されるスポットになっている店も少なからずあった。
 このようなコミュニティとも言える繋がりをつくった当時30代のマスタアは、乱暴な推論をすれば「学生運動闘士崩れ」の面々が多かったように思われる。大都会の大学での主義や思想での連帯に失望し、地元に戻りわかりやすい事柄を軸とした地域での繋がりの中に可能性を求めたのかもしれない。
 しかし上述のような喫茶店文化は、1980年代半ばをピークに急激に衰退していった。バブル期に入ると大学は工場法の規制を適用し郊外へ(街中に学生が集まったままだと、再びろくでもないこと―学生運動―を起こすだろうから郊外へ追いやるというのが行政側の本音だったようだ)と移転が進み、大学移転後の学生街は一気に衰退し、加えて珈琲は「カフェバー」のようなオシャレな場所で、MTVを観ながら飲むというトレンドがやってきた。多くの大学の移転先は山の中や辺鄙なところで、キャンパス近辺に喫茶店を出店するような奇特なオーナーは現れない。休暇期間中は商売にならないという理由だけでなく、上述したように若者にとって喫茶をする場所はお洒落な場所でというのがトレンドとなり、喫茶店文化は過去のもの、暗くてダサいものとして映るようになってしまった。そして街中に残された喫茶店は年配者の居心地のいい場所へとその地位がスライドしていったのだった。
 1980年代前半の大学生(の一部かも知れないが)は「学生街の喫茶店」を、最後に体現した世代なのかもしれない。 

付記 関西の学生街にあった喫茶店の中でも、店のネーミングが秀逸だったのは、関大正門から少し下がったところにあった「サボール」だ。講義をサボって店に耽(ふ)けこむという意味と、スペイン語の「sabor」(ニュアンスとしておいしい、楽しいなど)にかけていたのだろう。1980年、関大生の友人と「待ちきって」(待ち合わせて)この店に2・3度入ったことがある。何の変哲もない店だったが、おそらく店主はよほどシャレの効いたインテリだったのだろう。                                     
                                 了

 

主にお笑いと音楽に関する、一回読み切りのコラム形式になります。時々いけばな作品も説明付きで掲載していくつもりです。気楽に訪ね、お読みいただければ幸いです。