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『二十九歳』 Base Ball Bear

二十九歳になってしまった。

思えば、Base Ball Bearの『二十九歳』というアルバムが発売された2014年、私は二十歳だった。当時は、二十九歳という年齢になる頃には、自分も豊富な社会経験を積み上げて余裕と貫禄のある人間になっているだろうなと想像していたものだ。

「三十路」の方が人生の節目としてはキリが良いが、彼らが"二十九"という数字をアルバムタイトルに冠したことで、より一層その数字に重みを感じるようになっていた。そしてつい先日、これまで意識してきた年齢にとうとう達してしまったのだった。

当時の小出さんと同じ年齢になってようやく、このアルバムに込められた想いやかけられた呪いを理解できるようになってきた気がしている。

自分のここ1年の生活を振り返ってみると、妬みや僻み、嫌悪といったネガティブな感情を抱く機会が増えたように思う。仕事では任される裁量が大きくなったり、これまでにないほど多くの他者と関わったり、数年前までは下っ端としてただ我武者羅に打ち込んでいた仕事に対して、見る視点が変わってきた。そうすることで今まで見えていなかった人間関係とか政治とか嫌なものを見る機会が増えて、受けるストレスの量が増えたのだ。

ところが同時に、諦めることも覚えた。

一度考えだすと止まらなくなる性格だったはずが、そんな妬みや僻みで眠れない夜を過ごすのは心底くだらないしもったいない、と思えるようになってきた。

それは、あらゆる他者と自分は異なる存在であるということを理解し、何かを諦めた先にも道があることを発見し、何より自分という存在を肯定することができるようになったことを意味している。

アルバムの核心とも言える「魔王」は、そんな"諦め"と"決意"の曲なのではないかと思っている。自分と自分以外の存在に優劣をつけるのではなく、自分と他者を"異なる存在"として認識すること。それは同時に自分のアイデンティティを認めることでもある。

半年前くらいに久々に会った知人に「素直になったよね」と言われた。裏を返せば「今までは捻くれていたよね」と言われているようなものだが、人は年齢を重ねるにつれて捻くれていくものだと思っていたので正直驚いた。

実際には、元々持っていた人格の一つが偶々表面に出てきただけだと思っている。厳密に言うと、本当は胸の内に抱えながらも他者に見せるのはカッコ悪いと思って表に出さないようにしてきた人格を、誰かに見せても良いと思えるようになってきたのだと思う。

昔から、優等生でいたい気持ちと斜に構えていたい気持ちは表裏一体だった。ある時には社会の中心で輝く姿を想像したり、またある時にはそんな姿には興味が無くなって心の中で馬鹿にしたりしていた。

社会人になってからは、心の中だけではなく現実世界で、他者に対して優等生のようにふるまう自分と、そんな自分をくだらないと眺めている自分が交代で現れて、自分自身を気持ち悪いと思うことが増えた。平日はあんなに綺麗事を言っておいて、休日になると綺麗事を言っていた自分が馬鹿馬鹿しくなって、本当の自分はどっちなんだと何度も悩んだ。

けれど、このアルバムに立ち返ると、そんな矛盾する二面性を抱えて彷徨いながら生きていくことが、至って"普通"なんだと思える。平日に接していた人だって、もしかしたら同じ悩みを抱えていたかもしれない。自分だけが気持ち悪い存在というわけではなく、身の周りの誰かもまたそんな気持ち悪い存在であるかもしれないと思えば、"普通"が何かなんて実際は誰にも分からないし、追い求めることに意味はない。

二十九歳という年齢は、蓋を開けると現実的な現実ばかりが待っていて、想像していたよりもずっとヘビーでシビアな締め切りも契約もあった。九年前に自分が思い描いていたスマートな二十九歳とは程遠く、仕事は泥臭くこなしているし、やらなきゃいけないことを後回しにする癖なんて昔から何も変わっていない。

このアルバムを初めて聴いた当時は「なんでこんなに現実に限りなく近い風景を歌っているんだろう」と、驚きと疑問を感じた。何故なら、昔は嫌な現実から目を逸らすために楽しいことを追い求めていたからだ。音楽を聴くときくらい、嫌なことを忘れさせてほしいと思っていた。

ところが今は、現実から目を背けて夢に逃避することに魅力を感じなくなった。確かに現実は厳しいが、それが人生であり生活だと開き直るようになってきたのだ。それと共に、音楽だって現実と乖離した場所に保管しておくものではなくて、日常の傍らに置いておくものだと認識するようになった。

だからこそ、幻想や理想に浸ることに振り切っていない、生活感が強く刻まれたこのアルバムの良さが今では分かる。

当時は真髄まで飲み込むことができなかったこのアルバムを心の底から良いと思えるようになったことは、自分が曲がりなりにも成長できていることの証拠であるはずだ。

またそれは、歌われる情景に共感できたからという理由だけではない。このアルバムを作った小出さんと自分もまた、全く異なる人間であることを理解できたからだ。

自分と重なり合って共感できる部分を探して満足するならただのキーワード検索に過ぎない。だからと言って全ての事象に共感しようとするなんて困難だし、そんなことができる人は胡散臭いとしか思えない。

そうではなく、自分の目線から物事を見ながらも、自分と重なり合わない領域ごと自分に投影して、他者がどう感じているのかを想像することが少しずつできるようになってきた。都合の良い社会人スキルみたいに聞こえてしまうかもしれないが、言い換えるならば「察する」能力。それを身につけられたことが自分の成長だと思う。

二十九歳は昔の想像とは違った。厳しい現実は待っていたが、いつの間にか楽観的な思考を身につけていた。きっとまたいつか、この記事を思い出しながら過去を見つめ直す機会があるのだろうなと思う。

過去は変えられないが、これからまだまだ自分を振り返る機会があると思うと、未来に対する希望が湧いてくる。現実に直面したシリアスで鋭い情景を歌いながらも、頭の中で反芻してみるとポジティブなエネルギーをもらえる、『二十九歳』はそんなアルバムだ。

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