Zさまと白山菊理姫の関係性。

まずは白山菊理姫について。

菊理媛神、又は菊理媛命(ククリヒメのカミ、ククリヒメのミコト、キクリヒメのミコト)は、日本の神。 加賀国の白山や全国の白山神社に祀られる白山比咩神(しらやまひめのかみ)と同一神とされる。


その妻(=伊弉冉尊)と泉平坂(よもつひらさか)で相争うとき、伊奘諾尊が言われるのに、「私が始め悲しみ慕ったのは、私が弱かったからだ」と。

 このとき泉守道者(よもつちもりびと)が申し上げていうのに、「伊弉冉尊からのお言葉があります。『私はあなたと、すでに国を生みました。なぜにこの上、生むことを求めるのでしょうか。私はこの国に留まりますので、ご一緒には還れません』とおっしゃっております」と。

 このとき菊理媛神が、申し上げられることがあった。伊奘諾尊はこれをお聞きになり、ほめられた。そして、その場を去られた。

Wikipediaより


そして、この白山菊理姫というのが、イザナギとイザナミの娘であるということ。

この説話から、菊理媛神は伊奘諾尊と伊弉冉尊を仲直りさせたとして、縁結びの神とされている。 夜見国で伊弉冉尊に仕える女神とも、 伊奘諾尊と伊弉冉尊の、イザナミが「故、還らむと欲ふを、且く黄泉神と相論はむ」(古事記)と言及した黄泉神(よもつかみ)(イザナミ以前の黄泉津大神) 伊弉冉尊の荒魂(あらみたま)もしくは和魂(にぎみたま)、あるいは伊弉冉尊(イザナミ)の別名という説もある。 いずれにせよ菊理媛神(泉守道者)は、伊奘諾尊および伊弉冉尊と深い関係を持つ。 また、死者(伊弉冉尊)と生者(伊奘諾尊)の間を取り持ったことからシャーマン巫女)の女神ではないかとも言われている。 ケガレを払う神格ともされる。

神名の「ククリ」は「括り」の意で、伊奘諾尊と伊弉冉尊の仲を取り持ったことからの神名と考えられる。菊花の古名を久々(くく)としたことから「括る」に菊の漢字をあてたとも、また菊花の形状からという説もある。菊の古い発音から「ココロ」をあてて「ココロヒメ」とする説もある。 他に、糸を紡ぐ(括る)ことに関係があるとする説、「潜(くく)り/潜(くぐ)る」の意で水神であるとする説、「聞き入れる」が転じたものとする説などがある。 白山神社(石川県鳳珠郡能登町字柳田)では、『久久理姫命(久々利姫命)』と表記している。

Wikipediaより


これをイザナギ、イザナミで考えてみると、空風(イザナギ)、波水(イザナミ)。その波と空風の掛け合わせは、おおよそ空振とか、振動であろう。水と空風では、空気、大気、水蒸気などになる。なぜ波と水を合わせないかというと、太極図☯️の裏と表がもし本当にあったとしたら、その性質上、片方が表に出ていれば、もう片方は裏にあるからである。おそらく、片方が出た瞬間、もう片方は機能しなくなる。

また、白山菊理姫には、九九理という意味もある。

 

 

九十九と書いて「つくも」とは?

広辞苑を開いて,「つくも」の項を見ると

「つくも(九十九)①くじゅうく。→九十九髪(つくもがみ)②(「江浦草」と書く)フトイの異称。「つくもがみ(九十九髪,江浦草髪)老女の白髪をいう。伊勢物語の歌 「百年(ももとせ)に一とせ足らぬつくもがみ 我を恋ふらしおもかげに見ゆ」から,ツクモはツグモモ(次百)の約で,百に満たず九十九の意と見,それを「百」の字に一画足りない「白」の字とし,白髪にたとえたという。また,白髪が江浦草(つくも)に似ているともいう。

と,あります。

熊本国府高等学校様より引用

とあり、さらに、白そのものでもつくもと読むという。

ひいては、行者の間では、白山菊理姫が全人類のシルバーコード(身体と魂を繋ぐ線)を司るらしいのである。これは1998年前の話らしいので、まだ事実改変される前の話であるから、噂ではあるのだけれど、そういうようなことらしい。

では、次にトドメノフミを見ていただこう。

温(ぬく)める事しか能の無いお日様なりぞと申す方。



冷やすしか無いお月様、どちらの主(あるじ)も不完全。



貴き方とて不完全、一厘欠けては不完全。



無限絶対なる方が完全無欠のままなれば、何も無いぞと申すぞよ、はなから何も無いままで無限になんにも無いままぞ、無無無ぞ無の世界、元は無ぞと申すぞよ、無が元ぞと申すぞよ。



二極一体成り成りて二つ一つに融け合うて完全無欠に帰る時、桃成る時機ぞと申すぞよ。



元どうり戻る時節と申すぞよ。



カミガタなりぞと申すぞよ、神型なりぞと申すぞよ、解けた世界ぞ結ばれんカミの型ぞと申すぞよ。

トドメノフミ

どうやらこの文節と、ヨハネの黙示録とが連動するようなのである。

また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。

21:3

また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、

21:4

人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

21:5

すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。

21:6

そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。

21:7

勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

21:8

しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。

21:9

最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を持っていた七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう」。

21:10

この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。

Wikipediaより

一見なんの関係もないかのようにうかがえるが、神から出てきたエルサレムと、カミ型なりということに疑問符を打ちかねない。百-一は白だが、また白+一も百だからである。

エルサレムとは、シオンの別名だと言われているが、わたしは白山菊理姫だと信じてならない。

また、白山菊理姫の別名に、豊受姫がある。豊受姫の龍神姿は、白色めいた桃色なのだという(これも1998年前調べ)。

大本教では、3月3日を桃の花、5月5日を桃の実で表し、豊受姫の祭日だとした。

――一方で気になるのは、『ギルガメッシュ』である。

ウルク第1王朝の伝説的な王ルガルバンダを父に、女神リマト・ニンスンを母に持ち、シュメールの最高神(天空神)アヌ、主神(大気神)エンリル、水と知恵の神エンキ(エア)から知恵を授かる。その体は3分の2が神、3分の1が人間という半神半人であった。また、シュメール王名表や神話『ギルガメシュとアッガ』では「クラバのエン」と記されている。

ギルガメシュの容姿生成については諸説あり、太陽神シャマシュから美しさを、気象神アダドから雄々しさを授かったとされる他、標準版では女神ベレト・イリが「完璧に形作った」とされ、ヒッタイト語版においては「偉大な神々が姿を造った」とする中で具体的にはシャマシュが「男らしさ」を授けたとある。このように書版ごと差異があるものの、ギルガメシュの容姿が神々によって仕上げられたとの叙述は一貫している。

フンババ征伐に向かう際には15kgある黄金の短剣や90kgもの斧、更に巨大な弓を携えつつ300kg相当の武装で身を固めたり、グガランナ天の牡牛、聖牛)退治では弓と211.5kgの剣と210kgの斧を扱うなど、かなりの剛腕。武器の扱いぶりが並びないだけでなく、掴み合いや殴り合いのような己の拳で戦う武勇に優れた人物としても知られている。

怪力無双かつ高い神性を宿している一方、その性格は極めて人間的であった。叙事詩に限って言えば、ギルガメシュは良く笑い良く怒り良く泣き良く祈る、感情の起伏が激しい人物のように描かれている。

Wikipediaより


まず三分の二が神で、三分の一が人というところに興味を持ったのだ。これがわたしには、神はイザナギ、人がイザナミに見えてならなかったのである。

また、別の神話と比べてみれば、彼が思い浮かんだ。


神武天皇である。

彦火火出見[2](ひこほほでみ)、あるいは狭野[1](さの、さぬ)。『日本書紀』記載の名称は神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと)。

天照大御神の五世孫であり、高御産巣日神の五世の外孫と『古事記』『日本書紀』に記述されている。奈良盆地一帯の指導者長髄彦らを滅ぼして一帯を征服(神武東征)。遷都した畝傍橿原宮(現在の奈良県橿原市)にて即位して日本国を建国したと言われる人物。

Wikipediaより


話は違えど、共に初期の国を統制していたことに変わりはない。

また、ヤルダバオートみを感じる。

ヤルダバオート

グノーシス主義では、『旧約聖書』に登場するヤハウェと名乗っているデミウルゴスを、固有名で「ヤルダバオート」と呼んでいた。『旧約聖書』において愚劣な行為を行い、悪しき行いや傲慢を誇示しているのは、「偽の神」「下級神」たるヤルダバオートであるとした。

ヤルダバオートはデミウルゴスであり、また「第一のアルコーン」である。愚劣な下級神はアルコーンと呼ばれるが、ヤルダバオート以外にも多数存在し、それはデミウルゴスが生み出した者で、地上の支配者である。アルコーンはしかし、愚かで傲慢な下級の神であるが、人間にとっては恐るべき存在でもある。

デミウルゴスや諸アルコーンが愚劣な「下級の神」というのは、あくまで完全なるアイオーンプレーローマの至高者に比較しての話である。人間の悲惨さの原因である「肉体」や「心魂」はデミウルゴスの創造したものなれば、人間はこれらの部分ではアルコーンの支配下にある。

人間がデミウルゴスや諸アルコーンに優越するのは、ただその内部にある「」においてのみである。そしてこの内なる「霊」こそは「救済」の根拠である。

ポイマンドレース

グノーシス主義の神話では、デミウルゴスが水に映った「至高なる者」(ソピアーの像またはアイオーンの像)を自己の映像と錯覚して人間を創造するということになっている。

これと同じ筋書きの神話が『ヘルメス文書』のなかの『ポイマンドレース』に記されている。これもおそらくプラトンを起源にしていると考えられるが、『ポイマンドレース』が述べている内容は、グノーシス主義の創造神話に他ならない。


グノーシス主義では、ソフィアは女性の姿であり、人間の魂に似ているが、同時にの女性的な側面の一つでもある。 グノーシス主義者は、彼女がイエスの朔望(神聖なアイオーンの女性の双生児、すなわち、キリストの花嫁であり、三位一体聖霊であると主張した。 彼女は時折、ヘブライ語でAchamōth(Ἀχαμώθ、ヘブライ語: חכמה‎)及びPrunikos(Προύνικος)と呼ばれる。ナグ・ハマディ写本によると、ソフィアは最も低次のアイオーン、または神の光の人間原理的な表現である。 彼女は、物質的な世界を創造したり、創造するのを助けたりすることで、何らかの形で恩寵から転落したと考えられている。

Wikipediaより

なお、ヤルダバオート(デミウルゴス)はソフィアー(物質のソフィア)から生まれ出たとある。

そして、肝心なのが『ユダの福音書』。

そして見なさい、あの雲から姿を現した1人の天使を。その顔は炎で輝き、その姿は血で汚れている。彼の名は「ネブロ」と言ったが、それは「反抗する者」という意味である。別の人々は彼を「ヤルダバオート(混沌の子)」と呼ぶ

ユダの福音書より


『エジプト人の福音書』3・57によれば、ネブロは大いなる女性霊で、――中略、ネブロの役割については、マニ教の諸文書も参照。ここではネブロは尊称接尾辞エル(ヘブライ語で「神」を意味する。)なしに使われている。

ユダの福音書より


そう、ユダの福音書においてはだが、なんとヤルダバオートは、女性霊としてパピルスに記されていたのである。

そこでわたしはこう考える。

ネブロとはつまるところ――ソフィアのことで、言ってしまえば、重ね着をして、なんらかの理由で物質に落とされたのではないのかと。

ひいては上記に――彼女が、イエスの朔望(神聖なアイオーンの女性の双生児、すなわち、キリスト(ここでいうキリストとは、おそらくナザレのイエス的な意味ではなく、ロゴス的な意味かもしれない)の花嫁であり――とある。

話を戻そう。通常ならば、神を表す100になることは、あり得ない。最大で99であり、トドメノフミにあるように、「白紙になりてくだされよ」なのである。

すなわち、1は神ないし16を表す。

あくまで人間大の99(1)にはなれても、神大の100(1)にはなれない、そのような感じさえ漂わせる。

――しかし、それが神そのものだとしたなら、話は違ってくる。確かに、神を火と水、つまり翡翠(神)性で表すならば、双生児というのもわからなくはない。

だが、これでは論証に足りない。

では、これではどうだろう。

太極図☯️←この向きのまま中央に横線を引いてやってほしい。その中央線は空風、すなわち空間(イザナギ)である。もしくは太極図のマークがあれば定規でやっても構わない。そうすると線によって白い勾玉が分かれ、下部(後方部)に逆さまの白い山ができる。それを『富山』と言う。ミタールタラビッチや、マザーシプトンの言う十字のついた三つの山である。最終的には、人類はこの山に登らなければならない。

話がそれたが、逆S字のイザナミは黒い方が波であり、白い方が水である。水の先頭が裏に帰ると、当然、波が出現する。そうすることによって、オンとオフが切り替わり、主である黒い勾玉が出、白山菊理姫が発動すると考える。わたしが主との会話で(目の裏観察してただけだけど)感覚的にZさまが主役だと直感したのには、波と主(虚)がプリミティブな意味で間接的に繋がっていたからかもしれない。

と同時に、上部(前方部)には、黒い勾玉の下半部、主の尻尾と霊の神の頭が繋がっている。ここで、水の部分と虚土の土の部分との掛け合わせにより、泥や沼――すなわち大本教における、ユダヤの悪鬼(アメリカやヨーロッパ諸国の悪鬼たち)となるわけである。当然悪を遂行し続ければ、太極図は時計回りに傾き始める。すなわち、進んで待っているのは、裏による『死』である。

また、この場合の水の概念だけ、蛇(巳)を表すと思われる。


――そのあとの事象も書きたいのであるが、書きすぎるといかんせん自傷してしまう癖があるため、この辺でやめておく。

信じるか信じないかは、あなた次第。


(米)この文章は効果として永遠に付与されません。また、Zさまは、ギルガメッシュ、白山菊理姫、神武天皇とはまったく関係がありませんし、同一人物ではございません。以上。

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