国教を棄てた国 日本

最近は「バイトテロ」なる言葉があるそうだ。アルバイト従業員がtwitterやinstagramを通じて、非常識な行動を投稿し、それが拡散・炎上する一連の流れを称するらしい。自らの「不法行為」をご丁寧に世間に晒すのだから、批判を浴びるところまで計算しているのかと思いきや、どうもそうではないらしい。己の行動が批判の対象となり、氏名や学校名、果てには家族構成なども探り当てられると、決まってアカウントを削除し、批判から逃げようとする。
乱暴な物言いではあるが、こうした一連の「バイトテロ」を起こす人間は頭が悪い。頭が悪いということは、予測能力が著しく劣っているということもである。頭が悪いから、こうした蛮行に及ぶのだろう。そして事態が悪化して初めて、自分のしでかしたことの重大さや、「ネット住民」が見せる「正義感で糊塗した好奇心」の恐ろしさに気付く。

かつてルーズ・ベネディクトは「菊と刀」の中で、日本の風土を恥の文化と定義づけた。他者の内的感情や思惑と自己の体面とを重視する文化によって、「恥」の道徳律が内面化されており、この行動様式が日本人の文化を特色づけていると喝破した。慧眼だったと思う。
我々が子どもの頃は、近所の大人から「お天道様が見ている」とよく言われたものだ。今にして思えば、常に他者の目を気にしていろということを伝えたかったのだろう。この「恥」という概念は、日本の国教だったと思う。他者を思いやりながら動くことで、様々なことが不文律となっていた。
しかし今の日本からは、それが失われつつある。戦後教育の中で「責任なき自由」を教え込んできた結果、自己の欲求を満たすことは、何よりも優先されることとなりつつある。
小さなことではあるが、それを強く感じるのは「公共交通機関」を利用したときだ。子どもが電車やバスに乗ってはしゃぐのは当然だろう。自らの移動手段を持たない子供にとって、こうした乗り物に乗るというのは「非日常」だからだ。しかしそこで付き添いの大人が「電車(或いはバス)の中では静かにしなさい」と注意することで、「恥」の文化は継承されてきた。しかし最近は、付き添いの大人が注意しないどころか、一緒になって騒ぐ始末だ。
先日、新幹線に乗っていたとき、子どもの歌声に気付いた。大きな声でアニメソングを歌っていたのだ。驚いたのはその両親だ。一曲歌い終わるたびに拍手をして、「次は○○を歌ってみようか」とけしかけていたのだ。若い夫婦ではあったが、彼らは「歌いたいときには歌え」と教えられてきたのだろう。自分たちの行為が「恥ずかしい」とは、微塵も思っていないのだろう。

国教を捨てた日本に待っているのは、モラルの崩壊した動物園のような社会なのかと思うと、暗澹たる気持ちになってしまう。

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