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暦はちがへど

 幼い頃に焼き付いて消えない記憶。虫除けスプレーのきつい香り、虫の音、散在するか弱い光。嗅覚、聴覚、視覚で感じる夏。

 “夏は夜。月の頃はさらなり。闇もなほ。蛍のおほく飛びちがひたる。”

 夏の夜になると北八朔公園は、昼時の静けさとは異なり、多くの人で賑わう。といっても、近所の家族連れで、遠方から遥々訪れるほど有名な公園ではない。遊具などはなく、わずかに整備された道と池のある森、というのが正解。

 記憶には隣に少女が映っている。

 徒歩三十分強はかかる駅名のついたマンションに僕と彼女は住んでいた。虫除けをしっかりかけて、ゲームの主人公とヒロインかのように、暗闇の森の中を懐中電灯で照らしながら進んでいく。足場の悪い丸太の階段を下りると、池のある広場があって、そこから森を見ると辺りでポツポツと光っている。目を輝かせている少年と少女は毎年来ようと約束していた。

 短命な蛍は、毎日のようにこの森で見る事はできない。限られた期間の限られた美しさ。

 

 こんな横浜の辺境の地にも、開発は訪れ、コンビニエンスストア、巨大銭湯、バス停の設置に伴い、子供たちの遊び場は増えていった。北八朔公園もきれいに整備されていった。年々、蛍の数が少なくなっているようだった。

 少年と少女も成長していき、次第に距離も離れていった。運動をはじめた活発な少年と、内気で引きこもりがちな少女とでは無理もない。

 僕は引っ越す事になり、彼女との距離は物理的に離れていく。最後に二人で公園にいってから五年が経っていた。

 数年が経ち、新しい環境での生活にも慣れてきて前の生活を忘れた頃に、彼女の葬儀の知らせが届いた。暑さの盛り、雨が降る八月のことだ。小学校に入った頃から心臓の病気が見つかったそうだ。当時は幼いのと、気を使わせないために彼女の親は、隠していたらしい。過ぎた事を悔いても変わりはしない。わかってはいても、何かしてあげれば良かったと思うのは、きっと当たり前で、涙が流れるのも、きっと当たり前の事だった。

 告別式を終え、通い慣れた十日市場の蕎麦屋は、いつもよりつゆの塩分が濃いめで、蕎麦湯はぬるかった。

 夜になり、雨は小降りになった。なにかを忘れているような気がして、キーを取り、原付を走らせていた。国道246号線をひたすら進む。ほとんど無防備のメットでは、小雨でも防げず、スピードを出せば出すほど、目は強烈に痛む。青葉台付近で曲がり、記憶をたよりに、痛みにこらえながらなんとか公園へ辿り着く。以前よりも整備されたとはいえ、雨の影響で足場はだいぶ悪くなっている。たどたどしく降りいくと、広場には池が無くなっていた。街路灯もより多く設けられ、月も出ていないのに明るくなっていた。虫除けはしていないため、蚊は腕にも脚にも止まる。今にも死んでいきそうに蝉は啼く。数年前から蛍はほとんどみられなくなった。それだけじゃなく、この時期に蛍はみられない。

 煙草に火をつけ、この微かな光を蛍に見立てる。目を閉じて、記憶を頭に映し出す。香りは苦く、光は赤いけれど、少しだけ幼い少女の声が聞こえてくるようだった。煙草の先から昇る煙は葬儀の焼香のようで、光から昇っていく様は、なにかが遠くへいってしまう気がした。

 粒の大きな雨が当たり、光は消えてしまった。

 “また、ただ一つや二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。

  雨など降るもをかし。“

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