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苛立ち

 心臓にまで響いてくる、鳴り止まない重低音。視界が揺れる。七色の光が辺りを散在に照らし、男と女が音に合わせてわけもわからぬ動きで踊る。フロアで踊る者もいれば、バーテンの前で静かに酒を嗜む者、低いテーブルに置かれた灰皿の前で煙を吐く者と泥酔してソファに座り込む者、漁るように女を求めて辺りを見回しさまよう者がいる。不快感はそれとなく募るが、心臓の鼓動と供に打ち付ける重低音が心地良い。耳に当てたヘッドフォンから流れる音をたよりに、ディスクを調整し、音の強弱やリズムを変えていく。曲が終われば素早く別の曲を流していく。この中でただ一人、ここにいる全てを操っている。

 不快な視界を妨げようと瞼を下ろすが逃れようのないにおいが嗅覚を刺激する。香水と汗が入り交じり、カクテルの甘さと煙の苦さ、フロアの埃や長年壁に染み付いてきたもの、それら全てが空気中でブレンドされて鼻を通り抜ける。

 少し心を落ち着かせようと、テーブルに置かれた灰皿の前に立つ。ポケットから箱を取り出し一本だけ抜き、またポケットを探るけれど、ライターが見つからない。どこかで落としたのかもしれないと思っていると、その挙動を察知してか、ソファ側からすっと差し出された右手にはジッポが火を揺らしていた。

息を吸い込み、火をつけて煙を吐き出し、差し出した右手の女性に一礼する。先端の煙が目に入る。痛みと共に不快感は余計に高まるが、それを見てくすっと笑うその女性は少しだけ苛立ちを抑えてくれた。来なよとソファを叩き、招かれた客のように座る。つけられた睫毛と描かれた眉毛、頬を赤らめさせ、オレンジとピンクの混じったような唇に煙草をくわえていたその女性は、どこにでもいそうな明るい茶髪をぶらさげていた。

 音に負けないように耳元で喋りかけられ、こちらも同じように話を合わせていく。少しだけ面倒だけれど火を借りた礼もあり、話していても飽きはしなかった。テキーラのショットを二つバーテンに頼み、テーブルまで戻って一緒に飲み干す。身体に染み渡ったアルコールと、肺に入れた煙とで気持ちよくなり、重低音がさらに高揚させた。

 大きな交差点には人影は見当たらない。外の空気は中に比べれば少しはましだが、大都会の汚さを吸い込んでしまう。始発は動いていない、タクシーを止めて、三軒茶屋まで向かわせる。中では気づかなかったが香水の匂いは強く、車内に広がっていく。それは部屋中にも広がっていき、男の生活のにおいと混じり、また嗅覚は刺激される。

 カーテンは薄く明るくなり、一日を始めようとするけれど、なぜか寝付けず、一日が終わってはくれない。一人はもう一日を終えて、弱い寝息をたてながらベッドを埋め尽くす。いる場所もなく薄い暗闇の中、一度も拭かれていない曇った全身鏡をみつめる。自分の姿はくっきりとはうつらない。もはやそこにいるのが自分なのかどうかもわからない。

 行きに通った大きな交差点には、歩くのもままならないほどの数の人がいて、表記が青に変わる少し前から歩き始める。全員が同じ動きをする。そこですれ違った人の顔は一秒後には忘れ、いやむしろ一瞬ですら覚えているかはわからない。他者もまた然り、誰も自分を覚えてはいない。

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