私と禅 ただ坐る

数年前から、坐禅を生活に取り入れている。
きっかけは、自分に落ち着きがないと自覚していたことと
落ち着いた大人に第三者からみられたいというもの。
魂の救済を求めて、、、とかそういうものではない。
そして、「ただ坐る」ということで良いことは、自分が調子が悪かろうが、
野外にいようが、第三者がどうこう言おうが、世界中の人から嫌われようが
お金が無かろうが、時間が無かろうが、死ぬまでできることである。
 習い事は人より多くしてきた。ただ、ライフワークとまで続けられるものは少ない。そういうものも幸い持ってはいるが、多くの習い事は数年習ってその時の満足だけで終わってしまった。
そういうものを経験できて人生に彩りを加えたのは間違いないが、
虚しさも残る。

 「ただ坐る」これはほぼ毎日、長い時間ではないが実行している。
この時間だけは仕事、知識などの雑念をなるべくどけて
おくのだ。
「なるべく」でよい。人間なので、なかなか脳から湧き上が思考は
止められない。とにかく続ける。できない日があっても自分に落胆しない。

 坐っていく内、また坐ることをライフワークとしている
人たちの話を聞く内に、どんどん派生して禅の事を知りたくなる。
本屋、図書館を覗いてみると、禅に関する書籍が死ぬまでに読み切れないほどある。死ぬまでに学び切れないほどのことがあることが可視化されて、
ある種の「虚しさ」から少し開放されたような気がする。

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