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皆の憧れ夏の令孃寫眞

戦前なりきり寫眞

なりきり寫眞 江戸東京たてもの園にて

和洋装問わず、昔の装いの愛好者は、当時の人物になりきって撮影を楽しんむ人が多くいらっしゃるのではないでしょうか。抒情画を意識したようなポーズ、古写真のように加工した画像等を度々目にします。また、通勤時に和田倉門守衛所跡や三菱一号館美術館周辺で、撮影している人を見かけることがあります。ちなみに今日は、洋装の男性二人が撮影をしていました。カンカン帽、多分麻のセーラーズボンにシャツといった夏らしい格好でした。
このような撮影行為を、「戦前なりきり寫眞」と勝手に命名しています。
以前は、私も戦前なりきり寫眞遊びを楽しんでいましたが、思うところがあってやめてしまいました。しかし、私が戦前なりきり寫眞の撮影者であったならば、昔の高級グラビア雑誌のように仕上げてみたいという願望だけ持っています。もしくは、どなたかやっていらっしゃらないでしょうかね。
なりきり寫眞に美辞麗句を添え、尖端男女も憧れてしまうような出来栄えのもの。
そんな希望を抱きつつ、どなたかが遊ばれる時の参考例として、1927年(昭和2)の令孃達を紹介することにします。


御手本の令孃

1924年〜1928年(大正13〜昭和3)に刊行された高級グラビア雑誌『婦人グラフ』の夏號より、御令孃達のポーズと美辞麗句を原文のママ掲載します。
今回は、1927年(昭和2)の夏號(五、七、八月號)に掲載された令孃達です。
不断着物の孃は自然な様子が愛らしく、盛装の孃は気を張って衣裳を選んだのかと想像すると微笑ましくなります。
ちなみに、写真の枠は婦人グラフで使用されている図案を合わせました。


五月號

下山 花枝子 樣

目に靑葉

「お待たせ致しまして……」と、淑やかに出てゐらしつた花枝樣の餘りの愛くるしさに記者も「これは」と目を見張らずにはいられませんでした。少し昔風とも思はれる➖むしろそれ故に其の愛くるしさを增さりても見ゆる➖小ぢんまりした桃割れ髮、涼しい目許、整つたお顏立ちは宛ながら繪からぬけ出た方のやうでした。それなりつけておいでですもの。又母校たる女子美術學校に敎えておいでの松鳥先生が一昨年あたり帝展で入選された「少女と金魚」も花枝樣がモデルです。お年は十九で「今後もずつと繪筆に親しんで參ります」と、もの優しくはにかみながら仰有いました。

岡野 博子 樣

若葉かげに咲く花

クリーム色のアカシアが朝の冷氣に雫をおとします➖その萌生でる樣な若葉かげに咲く一房の花の精が博子樣と存じました。
明治の畫壇にこの人ありとうたわれた黑田淸輝氏に師事された父君岡野榮氏は只今學習院の方におつとめになつて居られます。博子樣(廿ニ)が、日に映えてパウと耳のつけねまで赤らめて御話しなさる姿は女性が恥じらひの心を持つて燃へつくす樣に華やかなものでございました。お裁縫は勿論、生花、日本畫から三味線、琴に至るまで御堪能でいらつしゃいます。

堀切 良子 樣

初夏の陽の下に

春蘭くれば、庭の樹立ちに鳴る風も爽やかに、淸新な光の亂舞になまめく乙女の日傘にも自づと心惹かれます。良子樣は衆議院議員堀切善兵衞氏の令孃で精華高女に御在學中です。御通學中はお下げ髮ですが、學校もお休みの折など漆黑の髮を花ゆるる桃割れにお上げになった其のたをやかな後姿のみを拜見しては二十位にもおなりかと思はれる位、それ位おみ大きくてゐらつしやるのです。何しろお背の高さはクラスでも二番目と仰有るほどですから、然し飽く迄も優雅な日本ムスメのタイプを失はぬお孃樣です。長唄を稀音屋六四郞氏に師事され、お琴やお習字にも身を入れて遊ばしておいでです。歌舞伎芝居の情調も隨分お好きの由でムいます。

柴 京子 樣

下町風のお粧りで

水も滴らむばかりに艷々しい高島田がよくお似合ひで振手やかなお召物の華の中から、ぽつかりと浮き出でてみえる薄紅の頬のお美しいこと!「私は下町育ちでムいますから、何といつても舊式な方が好きでムいます」と至極はきはきした口調で、臆する所もなく仰有るのも好感を與えられました。東京學館を御卒業後は、長唄や活花、お裁縫のお稽古においそしみになる外、お習字を山野紅蘭女史に師事されて一心にお勵み遊ばしてゐらつしやいます。氣さくなお母樣も出てゐらしつて「この子の取柄は非常にしまりのよい事でムいます。私なんかは卻つて叱られますのよ。又お母樣つたら不經濟な事をするつて……」とお云ひになつてお笑ひ遊ばすのでした。父君は實業家柴田松太郞氏でゐらつしやいます。


七月號

鳥羽 公子 樣(左) 櫻井 幸子 樣(右)

輝く白日の下で

さわやかな靑葉のひびき、燦々として日は照りそそぐ庭のほとりのニ令孃の明るさ美しさ。仲の善いお從姉妹どうしで聖心女學院の御出身です。
公子樣は三井物產機械部長鳥羽總治氏の令孃で芳紀十八才。ピアノに英語日本畫に造詣深く亦母君在さぬ御家庭の切り盛りをお一人で遊ばすとやら。
幸子樣は三井物產砂糖部長櫻井信四郞氏の令孃で芳紀ニ十才お花やお茶お料理などを熱心にお稽古になつゐます。極めて明るくそして亦極めて淑やかな方々であります。

橫田 美穗子 樣

日傘の陽の燃ゆる頃

昨年の十一月にお切りになつたと云ふ御髮『それはそれはわけが有りますの』と仰言る御言葉には、どうしても聞かずには居られない樣な、大したローマンスがひそんで居そうでは有りませんか。
美穗子樣は神田の生粹つ子。機械製作所のたつた一人娘で、九段精華女學校を御出になりましてからは御自宅で、御稽古に御いそしみでゐらつしやいます。何でも、極端に御趣味がのびると仰言る丈、乘馬やオートバイをなさる外、桃割に、振袖と云つた純日本タイプをとてもとても御好だそうでムいます。

石井 龍子 樣

障子の陰から

淸楚な其の立姿。ニ十三だと仰言る丈何處か落ち付いた御しとやかさ。昔に見るお姬樣の樣な感じでゐらつしやいます。
山脇高女を御卒業になりました。お父さまを、御失ひ遊してからは、お母樣とたうた御二人きり、親一人、子一人の靜かにもわびしい御生活の中を、お琴や、お茶花など御習ひ遊して、その靜さを添へてゐらつしやいます。
靑葉若葉のほの匂ふ六月の朝大塲美容院で御髮を御結上げになりました處をそのまま寫させて頂きました。

長谷川 春子 樣

言葉の才分豐かな

お年は十九、聖心女學をこの春御院卒業になつたばかりの、たとふれば➖池中にびちびち跳ねる紅ひの金魚のやうな愛らしさを彈力とを感ぜしめる明るい氣分をお持ちの春小樣は、實業家長谷川敬三氏の、たつたお一人の令孃です。幼い頃からピアノを竹岡鶴代女史に師事して、その豐富な才分によつて延びゆく將來を期待されておいでになります。


八月號

鈴木 光子 樣

其の美は夏夜の星の如し

學校が山脇高女御出身と聞いた丈でも、もうなんだか御靜和な感じをうける樣ですが、そのお母樣がお弱いために少さな方々の御面倒を御見遊してゐらつしやる光子樣は二十一歲と仰言るけれど御うらやましい程の落ち付いた御しとやかさ、御應對にも人をそらさぬあでやかさには、そのあく迄も御美しい御容姿に一層、輝きをそへてゐられます。
音樂はヴアイオリンを家事の片手閒に、御習ひ遊してゐらつしやます。御父樣は、鈴木修治樣東京製本會社の社長をしてゐらつしやいます。

藤原 公子 樣

七月の陽は燃ゆるされど

公子樣は山脇高女御出身で芳紀二十ニ才、おしとやかな中にも何處かに明智のひらめきのほの見える御孃樣、梅雨上りの午下りお妹樣と二人で交々御話し下さいました。何しろお父樣は人も知る前代議士の藤原惟廓氏、公子樣も先達の普選時はいろいろと御力添へ遊した由。其のため、今迄の數々の御稽古事もお止しになつてそのまま今日の暑を靜かに自宅で休めてゐらつしやいます。お兄樣がロシア文學をなさるためにお小さい時からつい讀んで來ましたと仰言るからには、さぞかし斯うした文學方面には、御造詣深い事でせう。それに實踐で源氏物語をなさつたり、伯父樣に名高い歌人がお有りになさるとうかがふし、お父樣も御詠み遊して、『すすめられますけれど』と仰言いますがその御作は、拜見出來ませんでした。

菊池 綾子 樣

樂壇に咲く花

朝に有に、たえず藝術に精進して、力强い足跡を印しつつ、頂きへ近づいてゆく綾子樣、上野の御出身でかの名高いベッオード夫人のお弟子でゐらつしやいました。豐艷な肉體を華やかなイヴニング・ドレスに包んで、落ちついた態度で仰有ることには➖私は性質が割に沈み勝なのでムいますのに、歌の方は非常に明るい浮き浮きしたものが好きで御座います。それは恰度文章家の方で非常に憂うつ的な人が卻つて面白い文章を書き、普斷は快活な人が重苦しい文章をものする例と同じなのではありますまいか➖とさやかな微笑みに玉の樣な齒を見せつつ。

長岡 節子 樣

家庭の若き女王樣

「お姉樣がゐらつしやらないで、つまらないわ」と鼻聲で甘えるやうに仰有ると、赤い水密がお口に入りました。其の水密の水々しさ、新鮮さにも增して節子樣は、八千切れるやうな若々しさに滿ちてゐる方です。其の仲よしのお姉樣は劇の硏究にドイツへ旅立たれて節子樣お一人が今し、家庭に於る女王樣です。理解の深いお母樣の下にピアノのお稽古に御熱心。ベートーベンのものなどが耐らなくお好きとか。お年は十九才、佛英和高女の御出身で、商科大學敎授長岡擴氏の令孃です。


なりきり寫眞は周囲への配慮を願います

参考例として夏の令孃を十ニ名挙げたあとで、見出しのような内容に進むとは一体どういう意図なのか?と感じられるかもしれません。分かりやすい出来事として、三年前の初春のことをお話したいと思います。

江戸東京たてもの園でのこと

友人と江戸東京たてもの園へ遊びに行った時のこと。久々に、なりきり寫眞を撮って遊ぼうということになり、混雑しそうな休日を避け平日を選びました。園内は人が疎らで、寫眞を撮って遊ぶには迷惑にならなそうな状況。
入場の際に持参したのはコンパクトデジタルカメラのみで、その他の手荷物はロッカーに預けました。
園内にはボランティアガイドさん達がおり、建築物について説明をしてもらえます。私達の着物姿に関心を示してくだすった、あるボランティアガイドAさん(50代くらいの男性)が、「ここの前で撮るといいよ」とか「一緒に撮ってあげるよ」と親切に声をかけてくれました。ついでに、建物のこと、昔は看板建築に宿泊できたこと等を色々聞いていると、無線連絡?が入ったようで「そちらに今向かっていると思います」という声が漏れ聞こえてきました。どうやら他の場所にいるガイドさんからの連絡だったようです。するとAさんが「近頃たてもの園で迷惑な撮影をする人達が増えている」と私達に話し始めました。
どうやら、撮影の小道具として勝手に室内の調度品を動かしたり、他の見学者に配慮せず撮影し続けていたり、立入禁止にしている場所に立ち入ることもと言っていました。
当時、江戸東京たてもの園のSNSでも注意喚起がされており、最悪の場合は室内見学を中止するような旨も書かれていた気がします。
私達のいるエリアに、その要注意人物らしき二人組がやってきました。
一眼レフを携えた中年男性と、なぜか弓道着姿の20代前半と思しき女性。
私は「このタイプの人達なのね」と内心思いました。というのも、この組み合わせの人達を川越で頻繁に見かけており、古い建築物や新河岸川で撮影しているのに遭遇することが多いです。川越へ行くのは骨董市の日くらいでも、必ず一組くらいは見かけます。組み合わせに関する詳細は一切知りませんが、色んな所に出没しているのでしょうか。
なので、この二人も同じ様な人達なのだと分かりました。
ガイドさん達が、それとなく二人を見張るように気を付けていたので、私達もつい注視してしまいました(笑)
どんな様子だったか、覚えている範囲で記載しておきます。

  • 酒屋のレジ前にて、レジを打つ素振りをして長らく撮影。何度もポーズを変更。

  • 商店内の調度品を持って撮影しようとしたところ、ガイドさんに注意された。

  • 他の見学者が迷惑そうにしているにも関わらず撮影続行。

大体聞いた通りの行動だったので吃驚しましたが、この機会は改めて考えるきっかけとなりました。
それまでは、誰もいないタイミングを見計らって撮影し、誰か来たらやめて立ち去るようにしてはいました。納得いくまで撮影をしていたら、ただのマナー違反になってしまいますからね。

なりきり寫眞をやめることに

上記の事情をきっかけに、なりきり寫眞遊びをやめてしまいました。大雑把に述べると理由は以下の三点です。これはあくまで私の考えであり、他の方に対して物申したいわけではありません。

  1. 配慮しているつもりでも、周りの迷惑になっている可能性がある。

  2. ただ面白いだけで、写真撮影を続ける目的が無い。

  3. 戦前の表面的な模範は自分の理想と異なる。

特に1については、不要なトラブルを避けるための意思からです。

余談…

私は普段から着物で出かけることが多いです。そのせいか、見学を目的に近代建築へ行くと、受付の人から「建物内で撮影会は駄目ですからね」と釘を刺されることが時々あります。私は「撮るつもりはありませんよ」と返答していますが、それだけ迷惑撮影者が多く、もしかしたら過去にトラブルが発生したせいか、警戒されているようでした。
しかし、警告されるのは同年代の友人と一緒の時だけです。もちろん一人の時は言われませんし、両親と一緒の時も言われません。若い人の中に、迷惑行為をする人が多いのでしょうか。
その一方、「お写真を撮りましょうか?」と親切に声を掛けてくれる方もいます。近代建築のガイドの方、クラシックホテルのスタッフの方、行きずりの方だったり様々です。こういう時は、厚意に甘えてお願いしています。