大阪市立図書館

二律背反的生活

 冒頭から苦笑ものお恥ずかしい自己申告だが自他共に認める、認められる几帳面、及び、それに付随するところの本人は決して「主義」として生きていないにも拘わらず「完全主義」といわれ続ける現在進行形。職場でも自宅でも云われるのは「手を抜け」だ。
 よそ様のご家庭の様子はそれほど知らない、そもそも友人宅を訪ねる段階で既に出迎え体制に準じて片付け済みの家模様だ。普段の様子は想像つかない。
 私の片付け基準値が既に標準より高いのだから共に住む者に共有を求められても、と家族は話すが「基準値って何?」と問い返したい、全く。きれいに整えられ、埃の無い生活を維持することの心地良さの恩恵に与りながら云われても釈然としない。
 さて、ここからが今日の本題。
 その手を抜けと云われ続けた家の中を退職してから眺めた。呆然とするほど「酷い」。この空間で私は生活してきたのか?と驚く。
 確かに乱雑さはなく写真的には全く問題はないことは客観的に見ても事実。
 いつも勤務終えて帰宅する頃は街灯が灯る時間帯で、特に我家は蛍光灯は使用せず間接照明の為室内全体がほの暗い。一週間の内この照度で暮す時間が圧倒的だ。今、その我家を昼間の太陽光で見ると至る所に磨き残しを発見する。*ローテーションで掃除はしてきているが一軒家の維持はそう簡単ではない。
 生活する為に勤務しているのだが、その生活は勤務しながら両立は難しい。
 睡眠時間が3時間程度のショートスリーパーの私であっても絶対時間が不足し十分な、いや正確に云うと納得の家の整えは出来なかった。つくづく「私は生活していなかった」のだと知る。生活者ではなかった。細切れの時間の中で食事もどきをし、身支度をし、若干の寛ぎの時間で読書、音楽。
 働き方改革がこのところ至るところで云われている。一日の中での勤務時間見直しが難しい場合は一週間のスパンの中で生活時間を捻出する。通勤時間に取られる部分は見直せる筈だ。
 人生はいつ何が起こるか予想できない。老後など先の世界ではなくもっと今の生活を楽しむ手立てが必要。
*写真:倉敷鷲羽高校
 

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