近代怪談「ひとりかくれんぼ」についての考察

「ひとりかくれんぼ」という近代怪談をご存知だろうか?ぬいぐるみに鬼役をさせ、自身は隠れることで一人で隠れんぼをするというものである。

この隠れんぼをやる時間帯は諸説あるが、基本的に夜中とされているが、私はここが面白いなと思う。

民俗学者の柳田国男の『山の人生』にはこう書いてある。

「東京のような繁華の町中でも、夜分だけは隠れんぼをせぬことにしている。よくかくれんぼをすると鬼に連れて行かれる。または隠し婆に連れて行かれるといって、小児を戒める親がまだ多い。(…)福知山附近では晩に暗くなってからかくれんぼをすると、隠し神さんに隠されるという」

『山の人生』が書かれた大正時代にはまだ神隠しが人々に信じられていて、夕暮れ〜夜中の隠れんぼはタブーとなっていた。ひとりかくれんぼもこれと似た雰囲気があり、人々の暗闇への恐怖という原始的な本能を感じさせる。

また、藤田省三は『精神史的考察』の中で、

「隠れんぼという本質にあるのは、『迷い子の経験』なのであり、自分ひとりだけが隔離された孤独の経験なのであり、社会から追放された流刑の経験なのであり、たった一人でさまよわなければならない彷徨の経験なのであり、人の住む社会の境を超えた所に拡がっている荒涼たる『森』や『海』を目当ても方角も分からぬままに何かのために行かねばならぬ旅の経験なのである」

と述べている。しかもこうした経験は、鬼役だけではなく隠れ役の方も意味を持つ。加えて、藤田省三は、隠れんぼでうまく隠れすぎて鬼役に見つからなかったときに感じる怖さや退屈は「社会からはずれて密封されたところに「籠る」経験の小さな軽い形態であって(…)「死」とも比喩的につながるものであった」とも指摘している。

我々がひとりかくれんぼに対する恐怖感は、柳田国男の言う暗闇への恐怖と藤田省三の言う「死」とつながる恐怖の二重なのではないか。

更に隠れんぼについては西村清和が『遊びの現象学』の中でも次のように書いている。

「(隠れんぼが)遊びにとどまるかぎり、もはや鬼は、あのおそるべき異形のものではない。つまり鬼と子は、一枚のシーソーの板の両端でむきあいわらいかけながらひとつに同調した往還運動を共有したのしむふたりのように、おなじひとつの遊びの関係の中で、この運動をつりあわせるためのふたつの項なのである。この宙吊りにされたシーソーの天びんに乗っている限り、鬼は、ことばの厳密な意味でこわい鬼ではなく、スリリングな鬼である。こわい鬼から完全に逃げ切ることが、鬼ごっこという遊び行動の本質ではない。挑発してははぐからし、追われては、反転して追うという、宙づりのスリルにこそ、その本質はある。」

隠れんぼは、鬼役と子供はシーソーゲームのように相互に関わりながらスリルを楽しむ遊びである。ひとりかくれんぼは怪談なので、尾ひれがつき、とても怖いものとされているが、実際は娯楽(「コンテンツ」)の一つだという側面もある。人々が怖さを感じるとともに、その怖さをいわばエンターテイメントとして消費するという高度な消費の方法である。ひとりかくれんぼを行うものやその実況を見た者の大多数は、内心「そんなことは非科学的だ」と思いながらも真実だと(少なくともその場では)信じているように振る舞う。嘘を嘘として楽しむという非常にハイコンテクストな楽しみ方である。

先述の藤田は前掲書で「「隠れん坊」は(…)おとぎ話の寸劇的翻案なのである」と著述しているが、これもひとりかくれんぼの本質だろう。おとぎ話(この場合は近代怪談・都市伝説としてのひとりかくれんぼ)を各自翻案して行う。ひとりかくれんぼは発祥がネットだと推察されるが、その儀式も伝聞のうちに変容し、ひとりかくれんぼをしようとする者は各自の解釈で行うことになる(もっとも、ウィキペディアに乗っている、つまりウィキペディアで定義されたやり方が今はスタンダードとなっているだろうと予測できる)。このような隠れんぼの本質をひとりかくれんぼも持っている。

ひとりかくれんぼに対する恐ろしさは、隠れんぼという子供の遊びが命に関わるもの、つまり遊びではなくなってしまう点にもある。現実世界の本当の経験へと転化してしまう。いわば隠れんぼに対する異化効果とも言うべき作用がある。

また、ひとりかくれんぼは現代日本で身の回りから失われた「異界」を作り出す性質もある。古来日本では「ウチとソト」がはっきりしていて、集落の外は異界であった。このような場では化生、神様、狐に化かされる等なんでもござれな状態であった(と人々は信じていた)。失われた異界を儀式や儀礼で取り戻すという行為であるひとりかくれんぼに対する恐怖はこのあたりから来ているのかもしれない。

と、ここまで述べてきたが、民俗学的にはひとりかくれんぼの「儀式・儀礼」は更に考察の余地が大量にある。例えば塩を使うのは日本神話の海水で身を清めたというエピソードとそれからくる塩=清浄というイメージの素朴な受容であったり、鬼役のぬいぐるみも「人形(ひとがた)」につながる。また刃物は一部地域では「魔剣」等邪悪なものという認識と同時に邪を払うという認識もある。このような数々の要素も後で検証したいが、とりあえず今回はここまで。つらつらと書いたのでまとまりがなくて申し訳です。


参考文献:

柳田国男『山の人生』

藤田省三『精神史的考察』

西村清和『遊びの現象学』

小松和彦『神隠しと日本人』

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