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ただ、本能に従う

 人生の黄昏を迎えて思うことがある。
 自由がなくなるとわかっていながら結婚したのは純愛と少し違う。若い時の性欲は子孫を残す本能に根差したものだと今なら理解できる。子が生まれるとさらに自由がなくなることは分かっていた。それでも妻とともに人間として本能に従った。
 我々夫婦は本能に従うことが許される時代に本能に従っただけだが、今は簡単ではなさそうである。世間と比べれば比較的順調に見える我々の子育てでも大変だった。人生において子育てほどのリスクを伴うものはない。もし、彼が生まれていなかったら、経済的にも時間的にも余裕がもてた。夫婦で協力する必要や反目することも少なくてすんだ。自由気ままな人生を送ることができた。我が子がいるからといって彼に頼りたいとは思わない。死んだあとで線香をあげて貰いたいとは思うけれども、それ以上の望みはない。それではと考える。
「何も良いことはなかったのか?」

 本能にしたがって生きてきた過去を思い出すと、苦労したことしか思い浮かばない。しかし、もし妻がいなかったらと考えると、違う景色が見えてくる。親も亡くなり、子もいない身寄りのない72歳となる。友人や昔の同僚や隣近所や遠い親戚などの知り合いがいる。しかし、老いるとともに足は遠のく。金さえあれば、誰にも頼らず最後まで生き続けることが出来るけれども、頼れる人がいない寂しさを味わうことになる。この歳になれば、社会のために働ける力はなくなり、金や名誉を求める気力もなくなり、食べ物を求めて、食べて、寝て、排出するだけの繰り返しになる。金があろうとなかろうと地位が高かろうが低かろうが大したことではない。歳をとってから大切なことは、動けなくなった時に頼れる人(妻や息子)がいるかどうかであり、死んだ時に葬儀を取り仕切って悲しんでくれる人がいるかどうかである。

70代を迎えて、
素直に本能に従うことが出来た時代は幸運だったと思う。
素直に本能に従うことができた人生を喜んでいる。

 関数(Function)は引数で結果(値)が変わり、サブルーチン(Sub-routine)はただの繰り返しで結果が変わらない。関数である「人生」は「才能」「努力」「運」などの引数によって結果が変わる。そして、ただ「食べ物を求め」「それを食べ」「寝て」「排出する」のは値の変わらないサブ・ルーチンであって、誰でも同じだと思ったが、「家族」「お金」などで随分変わることに気がついた。してみると老いた後「ただ生きる繰り返し」はただのサブ・ルーチンではなく、「家族」や「お金」によって変わる関数である。
 

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