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銀座東洋物語。10(ドッペルゲンガー)の②

(まだの方は①に戻ってお読みください)
 話が外れた。
 銀座東洋のブランドルームには決まりがあった。思い出話はさておき、そのため清雅様というゲストのリクエストに応えることはできず、代わりに一つ下の階層にある全く同じ間取りの部屋を用意し納得してもらうしかなかった。
 部屋を替わったその日、大量の荷物が運ばれてきた。銀座通りから入ってきた車はホテル一階の切り込んだような入り口に入ると対角線上の奥で、客は車を降りる。出入りの様子が見えないよう車寄せは設計されていたが、その車寄せが黒塗りの車でいっぱいになった。その車体には、線路を超えた向こう側の一流ホテルのマークが金文字で彫られていた。
 それを目にして、その日当直だった宿泊マネージャーだった福田さんが、

 「・・・から移ってきたってことか?」

と訊ねたが、ベルのナイトマネージャーは車は全部帰ったとだけ応えた。そのときは解明されなかったけれど、ホテルマンはみなこんな例をなん度も見てきている。
 福田さんの眉がいつもより下がり気味で、鼻をすする癖がちょっと激しくなった。彼もホテル東洋は三社目。これまで経験してきたいろんなゲストが脳裏に浮かんだに違いない。

 「自分で出たのならいいけど、出されたとしたら、ねえ・・・」
 清雅様がスウィートに移った直後のある日、トラックヤードですれ違った私を呼び止めた福田マネージャーは、小さな声をさらに低めて言った。大事なことしか喋らない。いつも黙々とお客の無理難題、派手なパフォーマンスが好きな他のマネージャーからの地味な仕事の依頼、そんな虚栄心を満たさないお仕事も神経質なほど丁寧にこなしてきた福田さんがわざわざ口を開くなんて。
 何を言いたいのかは想像はできた。
 
 でも、いろんなホテルを経験したいからって。うちはほら、まだ4年目だし・・・

 私はマネージャー会議で耳にしていた情報を繰り返した。会議には福田マネージャーも出席していたのに何を今さら言っているの、と思った。

 「そうだね、」

 福田マネージャーはそう言って鼻を啜ってフロントオフィスへ戻って行った。私とすれ違わなかったら誰にも言わなかった話。その可能性も誰も予期しなかったこと。

 ホテルを常宿にする、住まいにするというのは、ホテルにもゲストにもメリットがある。稼働率が60%あれば当時採算は取れると言われていたホテル業。しかし東洋銀座は、二桁台の客室数しかないにもかかわらず従業員の数は客室数の二倍。クリーニング専門の社員からドライバー、社員食堂の料理人まで、需要がなくても人件費はかかる。飲食の売り上げがなくても長期に居住してもらい、ベースの室料だけでも入ってくればとても助かる。それに東洋銀座はグループ会社の迎賓館として設立されたホテルである。当時はコストパフォーマンス的概念はあっても実用されていた例は少なく、豪華で浮世離れした心地よい空間であることはホテルの大切な役目だった。
 開業してからの年数が短く、知名度は上がってはいたものの、ホテルとしての格はまだ確立してはいなかった。そこに旧宮家の長期滞在は、喉から手が出るほど嬉しかっただろう。

 宮家のかたたちがお出ましになるホテルになったら、こじんまりとした私的な集まりとか、会食、ご家族との宿泊、お友達を海外から呼んで別宅として使っていただいたり・・・

 世界中の名ホテルがその都市のメインストリートにあるように、それこそ銀座通り沿いにあってショッピングに便利で劇場も近く、公演も歩いて行ける。そして我が家のようにくつろげる、なんど東京に『帰って』きてもゆったり迎え入れてくれる場所としての銀座東洋。このホテル建設当初からのコンセプトが、清雅様の宿泊によって磐石なものになると考えたとしても当然だった。

 それはこちら側の思惑と、
まだ手をつけていない未開のホテルを開拓しようと考えた彼方側の思惑が
合致した出来事だった。

 

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