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銀座東洋物語。10(ドッペルゲンガー)の⑤

 「吉田くんがね・・・」

 ホテルは幸せな仕事だ。お客様の笑顔のために働く。これほど清くて楽しい仕事はないだろう。残念なのは、その精神を間違った方向でゲストに利用されてしまうこと。

 清雅様に部屋の鍵を渡さない作戦の後、部屋の中にあるはずの未払いの帽子を身につけているところを撮影されていたため、マネージャーが部屋をチェックした。すると、何も聞かされていなかったスタッフが直接奥様から連絡をもらい持って行ったのだということがわかった。
 
 「だってしらなかったんです・・・」

 たまたま女子ロッカー室で見かけた吉田さんは困り顔で言った。以前にも時々同じようなことがあったという。30年以上前のことだから携帯電話もなかった。専属のようになっていた吉田さんの勤務時間は把握していた。彼女がバックオフィスにいる時間に電話が鳴り、部屋に忘れてきたものがあるから急遽届けて欲しい、内緒にしてね、と言われればどうすればいい?
お菓子やハンカチをくれたゲストの頼みを、聞かないわけにはいかないだろう。そもそもホテルの外にゲストの荷物を届けることを禁じるものはない。

 「こんばん、どこにお泊まりになるのかしら」

 まだ信じられないという表情で、吉田さんはうっすら涙まで浮かべている。ホテルには本当に心優しい人が多いと心底思った経験だ。

 そして還暦を迎えたいま、本当にそう思うのである。仕事でどんな自分になるか、なりたい自分のために仕事を選ぶ。そういう考え方があってもいいんじゃないかとも思う。あの時の吉田さんだって大人である。お金をもらって仕事として働いているのだから会社に利益を産むための仕事であることは理解しているし、少なからずゲストの経済事情も耳に入ってきている。それでも一旦自分の職務を部屋の掃除だと決めたら、ホテルマンの本分としてのゲストが心地よく泊まれるお手伝いに徹しているのだった。お金のことは彼女の仕事ではない。だからマネージャーも彼女にトラブルについて話していなかったし、特別な指示を出さなかった。
 見えていても見ないふりをする、問題の決着は1スタッフが担うものではなく各部署が最小限の権限を使いガードしつつ、組織として解決するのが理想だ。
 私は直接ゲストと接するスタッフまで全てを理解している必要はないんじゃないか、と思う。人の笑顔が好きだからホテルで働くことにした、そんな単純な動機が最強で、それ以上を彼女たちに求めるのは彼女たちがここで働く理由や理想、彼女たちが描いている『なりたい自分』にまで修正を求めることになってしまう。会社の利益は経営を担っているそれが仕事の人に任せればいい。思い描く自分を演じさせてくれない職場環境が納得できなければやめてしまっていいとさえ思う。私はいろいろ見えてしまい、そもそもなぜ直接予約を入れられないようなゲストを迎え入れたのか、などと考えてしまう。その挙げ句、華やかで優雅なホテルマンの仕事の世界を満喫することはできなかった。(絵空事でもなんでも作り上げられた世界に乗っかって楽しく仕事し、理想の自分を演じる。それが仕事の醍醐味!)
 
 それからのことは、仕事をする上である意味勉強になることばかりだった。

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