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銀座東洋物語。10(ドッペルゲンガー)の⑥

 ハウスキーピングマスターの邦康さんは、普段はポーカーフェイスで元ベルマンのチーフだったのが納得できる澄ました顔でゲストに対応する。業界の人や同じビルにある劇場に出演している俳優にホテルのバックヤードを案内している時は、少し様子が違う。声のトーンが上がるのだ。
 邦康さんの訳知りな感じの説明の声がうわずっていたから、振り返るとサービス業界とも芸能関係とも違う色合いの人がいた。その人に鍵交換の話をしていたのだ。
 追い出し作戦とも言える長期滞在の清雅様は、ハウスキーピングの女の子を抱きこんで荷物を出し入れしたり、時にはどうやっているのか部屋の鍵を手に入れることもあるから、最終手段として鍵交換することになった。しかし、東洋のは特別なものでホテルのために特別にあつらえたものだった。鍵交換自体ホテルにはよくあることだが、それは予備に作っておいた多数ある予備の中から選んで交換する。それで対応できるかどうか。今ある鍵の上に別途、倉庫につけるような鍵を取り付けることに決めたのだった。跡を残さず、事件が解決したら何事もなかったように、顔色ひとつ変えず太っ腹なところを見せようという考えだ。
 邦康マスターを見かけた一週間後、例のスイートルームへ行ってみると、南京錠に似た大きな鍵が取り付けられていた。ゴールドの小さくておしゃれなドアノブの脇に大きく無骨な鍵が取り付けられ、どんな鍵も侵入を許さない様子。全て片付いたあともう一度見にゆくとどの部屋がだったか分からなかった。

 まず、清雅夫妻が到着すると、ベルマンがそれをホテルのレセプションルームに知らせる。レセプションスタッフは、ルームアシスタントに電話を入れ、部屋のあるフロアで待機すると同時に、バックヤードのエレベーターを使わないか、内部階段を使わないか数人でチェックする。
 そうやって夫妻が実際にホテルに戻ってくるのを阻止したのは一回のみ。それ以来銀座界隈で見かけることは無くなった。

 さてそれ以降、経営陣がどうやって負債を回収したかというと、
 まず第一弾に、内容証明の手紙を送った。そういう名前の手紙があるのをその時初めて知った。A4の縦書き、赤いマス目の原稿用紙。それに負債内容と支払って欲しい旨を書く。それを居住先に送る。内容は郵便局に写しが保存されるから、貰っていない、内容を知らないと申開きできなない。
 これを送っても、未収の利用料金が支払われることはなかった。最終手段として上層部は、夫妻がスウィートに残したままのブランド品を競売にかけた。
 私は、競売にかけたと聞いただけだから、実際どうだっだかわからない。未払いのブランド品はショップが引き取ったのかもしれないし、質屋のような店が来て一括で買い上げたのかもしれない。いちど法的な手段をとると決めると、それまでの雑音のような騒々しさは一切なくなり、静かに着々とそしてあっという間に事は運んだ。

 全てが片付くとあの部屋は、清雅夫妻が滞在していたことをスタッフの誰もが忘れてしまうくらいの間、放っておかれた。クリスマスがやってきてまたフル稼働のシーズン。ようやく禁を破って部屋を売り出す。
 久しぶりに吉田さんにロッカールームで見かけた。私には一つ疑問があった。夫妻が入れないまま荷物が置かれていた部屋は、どうなっていたかということである。

 「もちろんクリーニングに入っていましたよ。朝晩とは言わないけど、人がいないと埃が溜まるもの」

 そんな時は、マネージャーから指示があり一緒に部屋まで行き、例の鍵を開けてもらい彼女だけ中に入って作業をする。約束した30分後にまた来てもらうまで部屋は施錠される。

 「部屋ってね、人の脳みそみたいって思うことがあるんですよ。
 記憶を抱えておく空間。
 いろいろあったけど、清雅さまはあのお部屋が大好きだったと思うんですよ。それにあそこに泊まっていた時の、銀座通りの記憶も」

 ホテルの女子ロッカーはかなり面白い。みんなが夢を紡いでいる。食と住と虚栄と・・・・人間臭い要素が綺麗にオブラートに包まれているせいか、脆くて儚くて優しくて、私はそんな人たちがとても愛しかった。

 しかしその後の吉田さんの一言が、幻想を打ち砕いた。

 「ときどき、奥様の気配を感じることがあったんですよ。
 衣装ルームの片付けをしていた時です。そこは一番エルメスのバッグがたくさん置いてあったんですけど、そのほこりを払っているとね、気配がするんですよ。衣擦れっていうんですか、ベッドルームの方から。時にはバスルームでお湯を入れる音がしたり。
 あたし、内線で連絡するんですけど、国康チーフは、清雅様はもちろん、スタッフも来ていないって。しまいには鍵は閉めただろうって叱れてしまうんです」

 背筋に冷たいものが走った。

 「ドッペルゲンガーって言うんですってね。
  あたし、清雅様の奥様の姿を部屋の中で見た日、ニュースでご夫妻が九州のギャラリーにいらしたっていうのを見ました。ちょうど同じ時間だったからありえないんですけど。
  よほどあのお部屋が好きだったんっですね、奥様。
  なんだか可哀想で」

 世の中には、どうしようもないこともある。
 初めて虚無感を感じた。

 福田さんの心配通り、夫妻の前宿は車で10分のあのホテルで、同じような問題でこちらに移ってきたのだった。我が家のようなホテル、それを目指していただけに、難しいところだと思った。
 それにしても吉田さんの案外しっかりしている様子には少々呆れた。『来る者は拒まず、去る者は追わず』ホテルマンの真髄はこっちの方かも知れなかった。ゲストの話になると時々涙を浮かべることもあったけど、それは彼女の仕事の楽しみ方の一つっだったかもしれない。そう思ったら、彼女がずっと卓越した仕事人に見えてきた。
 一つ困ったのは、ドッペルゲンガーを知ってしまい、一人で客室に行けなくなってしまったこと。防音施工の効いた室内は外からの音はほとんど入ってこないが、一人きりだと自分の服の擦れる音とか、分厚い絨毯を踏む音が反響することがある。それを気配と感じ出したら、もう・・・・。

 自分は楽しい思いだけ、旅先のホテルに残してゆたい。そん風に思う出来事だった。



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