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親父の青春を追ってみた

僕の親父は大正15年8月生まれ、終戦当時19歳。
戦争中のことは多くは語らなかった。「松山の航空隊にいた」とだけ聞いていた。軍歴証明書、というのがあり軍務についた人の記録が保存されているときき、佐賀県の福祉課に問い合わせてみた。
軍歴証明書はなかったが記録があったので複写を取り寄せた。
軍歴の記録を手がかりに、親父の青春を追跡してみようと思った。

軍歴

軍歴

昭和19年4月        龍谷中学4年中途退学
昭和19年4月20日(18歳)  特別幹部候補生として第三航空教育隊第六
              中隊に入管(一等兵)
              兵種の欄には「飛行兵」とある。
昭和19年5月4日       機関工手修行を命ず
昭和19年5月16日      肺湿潤に依り松山陸軍病院に入院
昭和19年7月30日      第一期教育終了
昭和19年10月20日      (上等兵) 
昭和19年10月28日(19歳)  治癒退院
昭和19年11月30日       陸軍航空審査部に隷属を命ず 
昭和20年4月20日      (兵長)
昭和20年8月24日(20歳)  復員下命
昭和20年8月25日      現役満期除隊 

軍歴記録の記載はここまで。
個々に書かれている部隊、用語を調べてみた。

特別幹部候補生

Twitterでつぶやいたら教えてくれる方がいました

この経歴は陸軍特別幹部候補生の第一期生にあたる。
昭和19年4月、愛媛県松山の第三航空教育隊に入営。
その後航空審査部に配属されているのが面白い。
教育中に入院しているから専門技能は事実上ないんだろうけど、実験機なんかのエンジン整備の下働きをしたのかな。
軍事郵便アーカイブ Military Mail Archives @MailMilitary

現役下士官補充のために15歳以上20歳未満の志願者をもって作られた制度です。
兵種は「航空、船舶、通信、技術等」。御尊父様は第三航空教育隊へ入営されていますから「航空兵」のうち整備要員になります。
中学校3年2学期修了程度の学力が求められましたら4年生で志願しても不思議はありません

Wikipediaによると

1943年(昭和18年)12月に臨時特例として定められ、15歳以上20歳未満の志願者の中から短期現役下士官となる教育を受ける者が特別幹部候補生である。場合により特幹と略された。太平洋戦争後半に航空、船舶、通信など特殊な技能教育が必要な兵種に限定して、中学校3年修了程度の学識を持つ少年のうち試験合格者を採用し比較的短期間の教育で下士官に任官させた

技能職の下士官を短期で養成する制度だったようだ。
軍歴に「飛行兵」とあり、「飛行機の整備をしていた」と生前話していたのでおそらくこの航空兵種だったと思われる

松山航空教育隊

松山航空教育隊についての詳細は不明。ただし配属された方の手記があった

入営した所は、四国松山の陸軍第3航空教育隊。航空隊といっても飛べる飛行機は一機もない。整備兵の教育隊だから仕方がない
45年3月、第1期の検閲を終えた新兵は一等兵に進級し、幹部候補生を除いた兵隊は南方と満州に転属していった(戦後になって、村に帰ったとき、一緒に出征した戦友は、三人のうち一人が戦死・餓死していた)。
 同年4月から、私は甲種幹部候補生として、教育隊に残り、中隊当番、医務室当番勤務などを経て、毎月入ってくる初年兵の教育係となり、内務班班長も経験した。

幹部候補生だっため南方への転属は免れたと思われる。 
この手記の方は親父と面識があったかもしれない。

昭和20年に松山は米軍の空襲をうけほぼ壊滅している。

第三航空教育隊の所在地
「陸軍第三航空教育隊」の所在地の明確な記録はみあたらない。松山飛行場(現在の松山空港)は海軍なので違う。戦時中の飛行場はたいてい、空港や自衛隊の基地になっていることが多いはずだがそれらしい施設は見当たらない。航空教育隊といっても飛行機や滑走路などはなかったようだ。

第三航空隊については、愛媛県史のサイトに情報があった。大佐が指揮する7000人もの大規模な部隊だったようだ。「航空整備に関し機関・電気・自動車・武装などの教育訓練を行った」とある。

補充隊までも動員して次々と前線に送り出した松山市堀之内の兵舎には、その後歩兵部隊が設置されず、第3航空教育隊が移駐して隊員教育に当たった。この教育隊は、陸軍航空整備に関する兵員教育を行う機関で、最初は台湾嘉義において昭和一二年一二月創設された。その後一六年一月、熊本県菊池に移り、更に一九年二月、松山歩兵第22連隊跡兵舎に移駐した。教育隊(長・大佐宿利十三郎)の人員は一時七、〇〇〇人に達し、航空整備に関し機関・電気・自動車・武装などの教育訓練を行った。その後航空機機材の払底に伴い、重信川付近の秘匿飛行場の設定警備などに任じ、その一部は周桑郡丹原町にも派遣されていた模様である。昭和二〇年二月に新教育隊長(大佐西岡延次)が着任するが、同七月一八日、この教育隊は復帰(解散)している。本土決戦に備え本土防衛軍の編成が急務とされた時期なので、隊員は再びこれら地上作戦師団に転属する者が多かったと考えられる。
 七月二六日夜の松山空襲によって堀之内の兵舎もその大半が炎上したが、この時堀之内には松山連隊区司令部とこの教育隊の残務整理の人員若干名が残っていたに過ぎなかった。

隊長の宿利十三郎大佐の写真が、親父のアルバムにあった。

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所在地は松山市堀之内。現在の松山城のようだが、松山城のサイトに
「明治から兵部省の管轄となり、太平洋戦争終戦まで、陸軍歩兵第22連隊の兵舎がありました」とあった。おそらくこの兵舎に居たものと思われる。

もともとこの兵舎にいた、歩兵第22連隊は勇猛果敢な部隊として有名だったらしい。沖縄戦に出征し、首里城攻防戦ののち、全滅している。

松山陸軍病院
半年近く入院していた松山陸軍病院は、現松山赤十字病院になっている
兵舎のあったと思われる松山城のすぐそば。

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入院中の写真。同じ陸軍と思われる若者がおおいのに驚く。結核が国民病だった時代。

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陸軍航空審査部

昭和19年11月に「陸軍航空審査部に隷属を命ず」とある。
おそらく、教育期間終了で部隊配属になったのではないか。

陸軍航空審査部は「審査部」という名前から事務方かと思ったが、軍用機の様々な試験をおこなう実務部隊だとわかった。整備兵が配属されるのもおかしくはない。
航空審査部にあたる現在の組織は、航空自衛隊航空開発実験集団

昭和19年の時点では多摩陸軍飛行場にあったとあるので、おそらく配属の時点で松山からこの飛行場に移動している。だから昭和20年の松山空襲にも遭っていない。

生前、「福生の航空基地」という言葉もきいていたが、おそらくここのことでないかと思われる。wikipediaには下記の記載もあるので、戦争末期には実戦部隊となっていたらしい。

親父はここで、航空機の整備をしていたと思われる。

大戦末期の本土防空戦時には、飛行実験部戦闘隊を「福生飛行隊」と通称し第10飛行師団指揮下の臨時の防空飛行部隊として投入している

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多摩陸軍飛行場にて陸軍航空審査部飛行実験部によりテスト中のキ84増加試作機(第124号機)(WikiPediaより)

終戦

おそらくここ、福生で終戦をむかえたものと思われる。なお、陸軍航空審査部の幹部は終戦時に自決している。親父はどうおもっただろうか。

8月15日夜には総務部長隅部正美少将が立川陸軍飛行場付近の多摩川河畔にて、娘2人にヴァイオリンを奏でさせたのちに母親と妻を加えた一家4人を射殺、自身も後を追い自決。また、先代の陸軍航空審査部本部長(当時は陸軍航空本部長)寺本熊市中将も自決している。

終戦後

軍歴には当然だが戦後の記録はない。
親父のアルバムには米兵と仲良く映った写真が残っていた。

陸軍航空審査部のあった多摩陸軍飛行場は、現在の米軍横田基地

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75年後の多摩陸軍飛行場に、奇しくも同い年の19歳の孫が来ていました。

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