何事も拘り過ぎない
日本人は完成度に拘る、品質に拘る・・・ですが、今時は拘りすぎない方が良いのでは?というのが今回のお話しです。
職人的拘りが当たり前だった日本
自分の人生を振り返ってみるといい加減だなぁ。と感じるコトが多いです。
ただ、高田純次さんほどのいい加減さはなく、ある意味それほどの深い拘りを持たない。という位のいい加減さです。
当然世の中完成度を求められることも多く、突き詰めなければならない。という感じの話が日本のあちこちで聞かれます。職人的な拘りがある意味必要・・・この状況が徐々にではありますが、変化してきていると感じています。
私は会社こそ転職経験はないですが、社内転職では普通の人の数倍いろいろなことをしてきました。ある種の拘りや職人的な深堀をしなかったからこそ、それだけの異動が出来たのだ。と今なら思えるのですが、ある意味節操なくやりたいことをやり続けてきたと感じることも多いです。
ただ、個人的には「良い塩梅のところまでやってみると、そこで満足し、次に移りたくなる」という感覚で、「良い塩梅」まではやり遂げていると感じています。ですから、今はエバンジェリストとして様々なことを語っていますが、ある意味「良い塩梅」までの事は理解&認識しているからこそ語れています。
専門家、つまりスペシャリストではなく、ゼネラリストという感じですが、専門的なところについても語れる部分が一般的なゼネラリストと違うのかもしれません。
マクロで語る。でも、ミクロは少し知っているからそこの裏付けを持ちつつ語る。
ただ最近、こういう職人的な拘りを深掘りし過ぎない方が今時は良いのでは?と考える様になりました。
多様化で一つの拘りでは済まなくなった
今は多様化が進み、また様々な仕組みが出来てきました。デジタル化が進み、実現出来ることも幅が広がっています。
そのような状況の中で一つの事だけを追うことが難しくなってきました。
専門的領域を深堀することは当然良いコトです。その領域のスペシャリストになり、その深い探求心を持って新しいことを見つけ、実現していく。
ただ、最近では「その技術をどのようなコトを実現するのか。」が重要になってきています。
この「コト」を考える際、一つの側面だけではなく多面的に物事を捉えることが必要不可欠になっています。
モノを知っていてもその使い方を知らなければならない。使い方は画一的なものではなく、利用者ごとに違う可能性も高い。その多面的な使い方を自分の中で認識しながらでなければ、モノそのものを作ったとしても売れないモノが出来上がる・・・
昔の常識「良いものを作れば売れる」時代ではなくなってきたのです。
品質をいくら追求しても、「私の使い方には不要」と言われた時点で売れない。使われない。という事が起こります。
「ディティールに拘りすぎると売れない・使ってもらえない」なんて時代に変わってきています。
簡単に形にできる時代
例えば、最近では3Dプリンタやデジタル、AIなど新しいテクノロジーが次々と生まれています。これらを使うことで誰でも簡単に形を作る事が可能になりました。
深い知識がなくても、背景を深く知らなくても簡単に形にできる時代です。
また、時代の進みが早くなった現在、新しいものが次々生まれ、変わっていく時代、柔軟に変化に対応していく必要があります。
この様な時代だからこそ、拘り過ぎず柔軟に変化に対応し続ける、そんな対応力が求められています。
実際、海外では一つの業種に拘らず、数年単位でビジネスを変化させていくことも多いです。その様な変化が必要な時代になってきています。
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