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『俺捨て山』 6/7

 検査などを全て終え、男連中は一階に、女連中は二階にと分かれて病室をあてがわれた。四人部屋に僕ともう一人が入ることになった。名前の書かれたプレートがベッドの足側のふちについている。清潔なシーツに寝そべった。疲れたのだろう、少し眠くなっていた。
 うとうとしているところへ看護婦の一人が夕食を知らせにやってきた。病院食なんてまずいのだろう。
 そう思っていたが食堂で出されたのはチキンカツだった。考えてみれば病人ではないのだから、普通の食事が出て当然だ。揚げたてのカツにたっぷりソースをかけた。それをかじってご飯を平らげた。味噌汁も飲み終えて食堂を見回す。壁際に本棚があり、座敷のように畳を敷かれたスペースにはテレビとゲーム機が設置されている。食べ終えた被験者たちはそれぞれお好みの暇潰しをしていた。食事の盆を返してから本棚の漫画を取って、またテーブルに戻って読む者、ゲームソフトを物色している者、雑談の相手を捕まえて話し込んでいる者もいた。食事のあと本棚を見てみた。小説や読み物といった本は少なく、ほとんどが漫画だった。あれこれと眺めておもしろそうなのを数冊抜き取り、病室へ帰って読みふけった。
 時折のどが乾いて、病室に置かれたタンクから紙コップに水を注いだ。用意されたもの以外の飲み食いは禁じられている。水はあまりおいしくなかったが、飲むならこれしかないのだった。
 隣のベッドの男は静かに横になっている。食事はとったようだが、他には何をするということもない。寝息が聞こえてきた。こちらも話し相手は求めていなかったので、お互いに気楽であろう。
 二冊目の漫画を読んでいると採血のため看護婦が来た。僕は針の刺さっている左腕を差し出した。針についている繋ぎ目のゴムに注射器の形の器具をつけ、血を抜いていく。ゆっくりと血が器具の中へ溜まる。何ミリリットルかわからないが、ともあれ気分が悪くなるほどの量でもなかった。一日三回も採取するのだからあまり多量にはやれないのだろう。
 器具が外され、また針を固定された。次は隣の男の番で、彼は看護婦に優しく声をかけられて目を覚ました。気だるそうにベッドに座り直して腕を差し出していた。
 腕の針を気にしながらシャワーを浴び、投薬を受けてからの消灯後、僕は深く眠った。
 毎日この調子で過ごした。投薬と採血と食事と漫画というだけの、平和な六日間はすぐに過ぎた。最後に採血を受けたのは帰る直前だった。まだ眠い朝、カネのことを思いながら器具の中に入っていく血を見ていた。
――お疲れさま。これで終わりだからね。
 六日間僕の採血に当たった看護婦がいい、針を抜いた。皮膚のあたりで張りついていた部分があったのか、軽く引っぱられるような感触があった。青くなった針の痕には脱脂綿とテープをつけられた。
 漫画を本棚に戻し、私物も片づけて着替えた。膨らんだバッグを持って他の被験者に混じり、最初に説明を受けた会議室のような部屋へ行く。座って待っていると久しぶりに院長が出てきた。これから最後に問診をし、カネはそれから支払うといった説明をして、協力に対する感謝を事務的ないい方で告げて部屋を出ていった。やはり初日以来会わなかった担当者が現れ、一人一人呼び出しをかけた。呼ばれた被験者はバッグを置いて出ていった。
 僕は三番目に呼ばれ、院長の部屋へ通された。体に不調などはないかと確認され、それから念を押された。
――病院に行きなさい。こっちで紹介してやってもいいが。
「自分で探します」
――職業病かね、治療が必要そうな人を放っておけない。ちゃんと治しなさいよ。
 院長は、心と体は同列なんだよ、と呟き、お疲れさま、といって僕を送り出した。
 元の部屋に戻り、机の上に置いたバッグを見つめてボーッと待った。担当者が戻ってきた順に封筒を渡している。受領証に印鑑を押すようだ。
――ハンコ、ここね、ここ。
 僕に渡すときに担当者はいった。殺すにも武器がない、という理由を念じて怒りを抑え込み、指で示されたところに捺印した。よこされた封筒は重かった。札束で重いわけではなく、小銭もジャラジャラ入っているのだ。最初に説明を受けたときの書類上では、拘束される時間について時給のように細かく支払額が決められていた。他には投薬と採血の回数も計算されている。半端な小銭もきちんと支払われたのだ。
 全員の問診とカネの受け取りが終わった。担当者を先頭にぞろぞろ玄関へ向かい、靴を履き、久しぶりの外の日差しを眩しく感じてバス停まで歩いた。
 バスを待っている時間、皆それぞれの過ごし方をした。そこらのコンクリートのブロックに座り込む者、煙草を取り出して火をつける者、楽しげに雑談している者。担当者も女の被験者に話しかけていた。僕はただ突っ立っていた。
 バスが来て、担当者に見送られながら被験者たちが乗り込んだ。僕が最後にドアの前に立ったが、担当者はバスの内側に身を突っ込んで、まだ女の被験者に話しかけている。邪魔なので肩を掴んでどかした。担当者は僕が乗り込む間際に何かいっていた。
 バスの振動に揺られながら封筒を覗き込む。十数万がどっしりと入っていた。
 そのカネをどのように使ったか、全く覚えていない。調子に乗って散財したのだ。あぶく銭は身につかないと誰かがいっていたのを思い出したとき、カネはほとんど残ってはいなかった。
 連続して実験を受けることはできない。前の薬剤の影響から体をクリーンにするために、最低でも半年は待たねばならないのだ。半年を過ごせるほどの余裕はなく、僕はもう一度バイトを探すことにした。
 僕に似合いのバイト先が見つかった。
 ゴミ処理場でゴミの整理をするというものだ。
 なんとなくここで最後のような気がした。ゴミを回収することではなく、運ばれてきたゴミを漁るという、これ以上に汚く忌まわしい仕事などないだろう。そして僕にはこんなことしかできないのだ。
 働いてみて考えを正した。こんなことさえできないのだった。
 異様に高い天井と、二百メートル四方はあるかという広い床、僕はその中を這いずり回った。ショベルカーを一回り大きくしたような重機がそこらを走り、天井近くまで積まれたゴミをすくい上げて床にぶちまける。防塵マスクをつけた作業員たちが撒かれたゴミへ集まり、指示通りに動く。鉄を拾えというなら鉄、プラスチックならプラスチックだ。悪臭と汚濁の海を、泥やほこりに染まった作業着姿で動き続ける。
 僕は働き始めた当初から、作業を教わっても頭に定着しなかった。たくさんの作業員がいること、重機を避けなければ足を潰される、どうかすると死ぬ場合があること、それらの緊張感にとらわれて何も覚えられない。覚えられないから何もできない、何もできないから侮蔑と嫌悪を浴びる。意識の混乱が深まっていく。指示する言葉もガラス越しのように遠くなり、意味がわかるまで数分を要した。とてもまともには動けないでいた。
 ただ作業員たちによる罵詈雑言だけははっきりとわかった。たかが他人にいわれたことでも、言葉に込められた悪意は自分の中で肥大化して体を重くする。重機に乗った男が誰かに僕の名を訊いていた。ほどなくして名を叫ばれ、あとに罵りが続いた。
――お前わかんねえんだから訊けよ、馬鹿なんだからよ。
 その声は重機のスピーカー越しに作業場に響いた。訊け、とは指示ややり方のことだろうが、自分の名が叫ばれたことでパニックになってでたらめに動いた。かろうじて覚えている範囲で指示に従うふりをした。
 僕が耐えられる苦しみではなかった。痛みは休みなく降りかかり、痛がるたびに嗤われ、居場所はなく、仲間になる人間もいない。自問する。ゴミの中をさまよって、こんな扱いを受けてまではしたカネが欲しいか?
 休憩室の床へ他の作業員と同じように座り、考え事を、というよりは考えることに耐えているとき、目の前に誰かが立った。俯いているので汚れた長靴しか見えない。その誰かは僕に話しかけているようだった。だが僕には聞こえていなかった。笑い声がして目の前の長靴が二組になった。彼らは何を話しているのか、知りたくはないが目線を上げた。睨んだように思ったのだろう、彼らははしゃいだ。去っていくときに、どうやって知ったのか、僕の住む町名をいっていた。
――ぜってー殺す。あいつらも呼ぼうぜ。
 休憩後には考えながら作業をした。僕はさっきの言葉と出来事の意味がわかりかけてきて、これからのことに怯えていた。殺すといった。仲間を集めるようなこともいった。言葉ではなく物質的な暴力が来る。僕が空想の中でやっているようなことが自分に向けられるのかと思い、恐怖はより一層の混乱を招いた。
 もう辞めようと決めた。僕自身も環境も、働けるような状態ではない。
 合計で九日の作業を終え、帰りに事務室へ行った。上司に辞めると告げる。引き留められもせず、今日の日給を渡し、なんら挨拶もないまま最終日は終わった。
 解放されるといくらか気分が回復した。帰りの電車の中で、もうあそこには行かなくてもいいのだと安堵した。一方で混乱の燃えかすも残っていて、数多くの新しい傷がフラッシュバックし、殺される可能性についての考えも頭から離れなかった。結果的には殺されることもリンチされることもなかったが、しばらくは不安なまま過ごした。
 ささくれ立った心が落ち着くまで一ヶ月もかかっただろう。嗤う人間を虐殺するイメージを繰り返してどうにか平常心を取り戻した。ゴミ処理の給料にはほとんど手をつけていない。これで何が買えるか、様々に考えた。
 そして、ある未来のために使おうと決めた。

(続)

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