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『俺捨て山』 5/7

 カネがなくなっていく。働かないぶんその減り方は早い。僅かばかりの預金が底をついたとき、もうどうしようもなくなってまたバイトを探した。きっとまた蔑まれたり殺したくなったりするのだろうが、やらなければならないのが労働というものだ。これは僕のようなゴミにさえ義務づけられている。まともにできもしないことをやれと要求する。がんばればできると無言で圧する。気力という。気持ちの力のことだろうが、僕の気力の使い方についてなど誰も考えはしない。
 何もしなければ怠け者といわれなければならない。しかし僕は狂いつつある。狂気を押さえ込むことに気力のほとんどを割きながらできることは何もない。
 実際次のバイトではどんな簡単なこともこなせなかった。製鉄所の下請けのライン工として入ったところ、同じように働く連中の視線、声、姿そのものに常に怯えていた。
 混乱のため毎日ミスをした。ベルトコンベアを流れてくる何かの機械のパーツを拾い上げ、ビスを二つ差し込んでまた流れに戻すだけの作業のうち、パーツは拾いきれず、ビスを床に落としては探し、作業が追いつかないときにパーツを置いておくための台は山のようになるのがいつものことだった。
 仕事ができないと迫害されるものだ。作業のリーダーは三日目には僕を呼び捨てにし始めたし、他の連中もそれにならい、呼び捨てと薄笑いで僕を人間以下のものとして扱った。
 そうしてますます仕事ができなくなっていく。ミスは増え、怒声を浴びせられるようになった。狂気は腫れあがる。意識が熱っぽくなり、こいつらを殺すかバイトを辞めるかの二択を考えた。余裕はない。
――頭悪すぎるよあいつ。
――また来てるし。
――早く辞めねえかな、気色わりい。
 そういった言葉に刺され続けた。連中は群れて話す。言葉がエスカレートするのはそのせいだ。
 更衣室で一人と目が合ったことがある。死んだような僕の目を見て、ふん、とニヤけて目をそらした。真意はわからない。いつもの侮蔑なのか、一人きりで僕と対する勇気がないのか。声をかけ、試してみることにした。
「待てやクソガキ」
 そいつは再び僕を見た。豚が喋るのを聞いたほどに驚いた顔だ。僕はゆっくり近づいて急に拳を振り上げた。そいつは体がすくませ、手を自分の顔の前にやって身を守ろうとした。
 この無様な雑魚の挙動を見て僕は少し満足し、その日で工場を辞めた。今度はきちんと給料をもらった。だが、雑魚はいいとしても、あの工場にいた他の連中からの侮辱はやはり忘れられない。この苦痛が癒えるまで耐えて過ごすことになる。いつものことだ。
 それにしても、こうまで何もできないのは何故だろう。やはり僕は狂人なのだろうか、と疑いを持った。結論は、その通りだ、というものだった。以来その認識が消えることはなく、気が狂っていることとキチガイ扱いされることとは、恐らく死によってのみ終わる苦しみなのだろうと予感した。
 地獄はある。僕自身が地獄なのだ。
 苦しみに耐える義理もないだろうが、それでも自殺しようとは思わなかった。別に自分の命に対する信仰があるからなどといった立派なものではない。死ぬ理由がないのだ。僕が死んだことを知れば喜びそうな連中に出会ってきた。いま自殺したら、それは連中のために死んであげるということになってしまう。死ぬなら気高く死にたいもので、最期の日までもが連中によって汚されていいわけではない。
 その自尊心によって生き延びた。殺意もサバイバルの足しになった。顔を思い浮かべ、殺す、と念じれば悲しみは薄らぐ。ナイフを見つめていればもっといい。大事なのは殺した気分になることだ。殺人のイメージは繰り返すほどにリアルになっていく。まず連中の一人を思う。そいつはまず取り出したナイフに驚く。笑う僕が近づくと目を剥いて後ずさる。悲鳴は出ない。そんな悠長な瞬間ではない。怯えるそいつに何か一言吐き捨て、死ににくいところか、または目を刺すか耳を斬るか。引き抜いたナイフの先に眼球がくっついて出てくるか、耳が湿った音を立てて足下に落ちる。ようやくの悲鳴が喉から絞り出され、僕は止まらぬ笑いをそのままに虐殺する……。
 夢想から醒めると、いつも全身に汗をかいている。こうなるともはや現実の殺人との差などないのではとさえ思う。想像は法的にも自由な部分だ。実際に殺すよりも賢いやり方であろう。何度でも殺せる点もいいし、殺し方も無数にある。
 殺人をイメージすることについて、自分を病的だとは感じなかった。これは狂気に包まれている僕に残された正気の領野なのだ。怒り、殺したいほどに憎むから、いくらかでも救われていられる。
 僕は堂々と構えていた。また何もしない日々を送っていたが、暗い部屋の中、肯定的に自分を捉え、取り扱って過ごすのだ。手元の僅かなカネで安酒を飲み、音楽でもかけてゆらゆらと体を揺らす。酔いつぶれて眠り、起きるとさっぱりとしている。目覚めのときは爽やかなのだが、十時間以上経つとイライラしてくる。忘れられない連中を殺したくなるのだ。そこでナイフを手に取り、見つめて、想像の世界で特権的な虐殺者として君臨する。お目当ての人間を好きなように殺し、汗びっしょりで我に返り、それからまた酒を飲む。
 飽きもせず繰り返していると考えてしまう。想像ではない現実の殺人についてだ。頭の中でいくら殺したところで連中は平気で生きている。僕のことなどとうに忘れ、ヘラヘラとやっているだろう。
 思い出させ、思い知らせるべきではないか? 殺されるだけのことをやったのだと自覚させることが大事なのではないか?
 だがすぐに打ち消す。捕まり、テレビで顔と名を晒され、両親を打ち砕き、刑に服すほどの不利益を受けてまで殺さねばならないほどの連中ではない。法の抑止力に感謝している。殺人罪があってよかった。
 飲酒と殺人空想の日々を送り、工場を辞めてから数ヶ月後、さすがにこのままではまずいと焦り始めた。この人生には将来がない。死を待ち、近づけているだけだ。何か生産的なことをしなければならない。二十本以上の酒瓶が転がる床を見つめ、いよいよ焦りは強くなる。
 とはいえ、元より何かを生産する能力など何もなく、技術を身につける根気さえもない。痛感していたのだ、僕にできることは何一つとしてないのは。
 それでもバイトや何かをやろう、とカネ稼ぎの方法を探した。また苦しめられるとわかっているから気が重い。
 ある夜、居酒屋で友達と飲んでいるときに愚痴をいった。バイトをする必要があるが面倒くさい、と酔いに任せてこぼした。意外な言葉が返ってきた。
――寝てるだけでカネが入る方法はあるぞ。
 友達はそれをやったことがあるそうで、詳しく話してくれた。新薬の実験に参加するというものだ。販売する前の最後の段階として人間の体に投与し、問題がないか調べるのだという。
「いくらもらった?」
――七万かな、三泊で。紹介しようか。
 僕は飛びついて、病院の電話番号や所在地などを訊いた。携帯にメモを打ち込む僕に彼はいった。
――気楽にやれるからな……お前に向いてるよ。
 同情するような声だった。バイトでどのような目に遭ってきたかを話したことはないが、よほど疲れているように見えたのかもしれない。気遣ってくれるのは嬉しいことだ。カネ稼ぎの方法も教わったし、少しハイになって焼酎の入ったグラスを空けた。
 泥酔して帰り、翌朝は頭痛がしていた。飲み過ぎたのだろう、記憶があやふやだ。携帯を見て病院の実験のことを思い出した。
 横になったまま頭痛が治まるのを待った。痛みは引いたかと思えばまた戻ってくる。数時間じっとしているはめになった。
 頭痛は夕方になってからようやく治まった。僕は携帯を操作して、登録しておいた病院の電話番号を表示させた。
 通話ボタンを押し、コール音が五回流れてから受話器を取る音がした。若い女の声が病院名を告げる。僕は紹介を受けたことをいい、紹介者の名前を訊かれたので答えた。それから病院でやることの説明を聞いた。薬を投与して採血をするだけらしい。日帰りの実験と五泊六日のものがあるらしく、どちらにも空きがあるそうだ。僕はより多く稼げるであろう泊まりのほうを選んだ。最後に体重や、普段酒を飲んでいるか、飲んでいるなら酒量はと訊かれ、参加できることに決まった。もちろん酒量はサバを読んで答えた。
 実験の始まる日は大きな駅の高速バス乗り場に集合だ。着替えなどが入ったバッグを持って向かった。同じく実験を受けるのか、若い男女が八人ほどいて一箇所に固まっている。そこへ歩いていくと担当者らしき男が僕を見た。名前の確認後にバスのチケットを渡されて、僕は出発まで集団の隅にいた。
 ほどなくバスが目の前に停車した。ドアが開き、担当者の呼びかけで僕たちはぞろぞろと入っていった。
 窓際の座席に着いてボーッとしていた。発車してしばらくは灰色の壁しか見えない高速道路を進んだ。走るにつれ景色が変わってきた。まず壁がなくなり、ビル群の横を通ったあとはどんどん田舎らしくなってきた。茶色の畑のそばに家屋があるのや、鳥が飛び交っている大きな川などを見ることができた。僕はちょっとした旅行をしている気分だ。
 乗車時間を持て余すこともなく目的地に着いた。例によって担当者が呼びかけ、僕たちはそのバス停に降りた。
 民家が点々とあり、他には放置されて荒れた空き地だけがある場所だ。担当者を先頭に、十人ほどでその町だか村だかを歩いていった。誰も喋らない。こんなカネ稼ぎをしに来るくらいだから何らかの鬱屈のひとつもありそうだ。どう考えてもまともな稼ぎ方、つまり労働をして対価を得るなどといったものではない。シノギという言葉がぴったりくるようなことだ。裏社会に似たこのやり方が少し楽しいことに感じられた。
 六、七分も歩くと小綺麗な建物に着いた。看板を見なければ病院だとはわからないだろう。
 そこへ入って玄関のホールで靴を脱ぎ、スリッパに履き替えた。会議室のようなところに通される。全員が椅子に座ってから初老の男が出てきた。いかめしい顔をしていて、冷たい目つきが学者めいている。実際に学者なのかもしれないが。
 男は、院長の何とかです、と一言で自己紹介をし、実験の大まかな説明を始めた。まず身体検査を、次に血液検査、最後に問診のようなことをして、今日の残りの時間は自由だそうだ。ただし外出してはいけない。投薬は明日からで、錠剤を朝と晩に飲む。一日三回の採血のために腕へ針を刺したまま過ごすこと。
 説明を終えた院長は部屋を出ていき、入口のところで待機していた、僕たちを連れてきた担当者が書類を配った。名前などの必要事項の他、万一健康を害しても構わないか、という欄があった。躊躇なくサインして印鑑を押した。
 担当者は内容を確認しながら書類を回収しにかかった。僕の番になり、ざっと書類を見てにやけた。
――ハンコこっちっすよ。
 その軽い口調に嘲りを感じた。捺印する箇所を間違えたようだ。指で示されたところに押し直す。担当者はにやけたまま無言で書類を持っていった。僕はいつかこいつも空想の中で殺すのだろう。
 イライラしながら検査室へ行った。中では看護婦が何人かいて明るく話している。並んで順番を待つ。何かの機材がたくさんある。身長計と体重計くらいしか用途がわからなかった。
 順番がきて体の測定をし、血液検査のほうに回された。テーブルの上に小さい枕のようなものがある。看護婦はそこへ手首を乗せるように指示した。
――刺されたいほうを出して。
 冗談っぽくそういった。左腕の袖を引き上げていわれたようにする。腕を見て彼女の顔色は曇った。かつてナイフで切ったときのケロイドがいくつもあるということを、僕はそのとき忘れていた。看護婦の様子で気がついたが、別に問題もないだろうと思って針先から目をそらした。
 針をテープで固定され、血の入った試験管のどす黒さをなんとなく見つめた。少し頭がぼんやりとする。椅子から立ち、次は検査室の奥の部屋へ通された。
 そこはステレオタイプな病院の診察室のようになっていた。大きな机とパソコン、二脚の椅子のうち大きいほうが医者のものという具合だ。ここの場合も同じで、大きな椅子には院長が座っていた。僕ももう一脚の椅子に座った。検査表らしきものを見ていて、目を上げずに僕に訊いた。
――風邪気味ですか。
「いえ、なんともないですけど」
――白血球が多いんだよな……。
 後ろに気配があった。採血をした看護婦が一緒に部屋へ入っていたらしく、彼女は僕の背後から手を伸ばし、左腕の袖をめくった。院長は困ったようにうなる。
――こういう傷があると数値が上がるんだ。心療内科には行っていますか。
 首を振って、いいえ、と答えた。何か薬を飲んでいるのかを訊かれてそれも否定した。医者は考え込んでいたが、今回の実験には関係のない数値だから、ということで認められた。ただ、ここを出たら早めに心療内科なり精神科なりに行くように、と釘を刺された。

(続)

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