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『俺捨て山』 3/7

 カートリッジを見ていても、それがどんな内容のゲームだったかは思い出せなかった。相当遊んだはずなのだが、心に浮かぶのはあの頃の悲惨な日常だけだ。過ぎ去ってからこのように思い出すと、犯罪や悪徳は悔いるよりもただ懐かしいものとしてだけ甦る。苦しみもいまはない。
 寝転がる僕の脚へ赤い西日が差している。少し冷え込んできた。じきに夜になるだろうし、『思い出す部屋』も薄暗くなってきた。立って電球をつける。天井からぶら下がっているそれはオレンジ色の光で部屋を照らした。
 肩がこっている。大きく伸びをした。思い出すというのもなかなか疲れる作業なのだ。時間、場所、心理、行動、自己と他者、全てをそのときのままに追認し、意識のもとに生き直す、体験し直すということ。こんな偽物の永劫回帰をしている僕は、はたから見ていると何もしていないようにしか理解されないだろう。だが僕は小物を手にしてじっとしているとき、この僕ではない僕としてかつてあった世界に生きている。
 電球をつけたものの自然光が恋しく、夕焼け空でも見ようと障子を開けて縁側へ出た。見事な赤が広がっていた。田園を染め木々を染め、空の鰯雲には何か生々しさをも感じる。色づけている夕日は遠くの山の裾野にあり、半ば沈みながら今日最後の陽光を刻みつけている。その日の陽光が死ぬにせよ何が死ぬにせよ、断末魔のときというのは騒がしいのかもしれない。
 夕暮れの景色を楽しみ、また家の中へ入った。『思い出す部屋』の電球がかすかに揺れた。次は何にしようかと小物たちを眺める。あれでもないこれでもないと漁っているとき、家の裏手から猫の鳴き声が聞こえた。ここらでよく見かける三毛猫だろうと気づいた。鳴き声に呼ばれるようにして生魚などを持って行くと逃げてしまう。しかし家に引き返すと、またどこかでニャアというのだ。
 だから構わずに思い出すことにした。やがて睡眠薬のカプセルに目を留めた。

 十七歳。
 一学年上の綺麗な女子生徒に惚れた。男子校の中学生だったことによる女子との接触のぎこちなさ、不慣れな会話、恐怖に似たものなど、いろいろなハンデがあったが構わずに近づいた。そうさせるだけの美しさをCに見ていた。
 僕らは授業が終わると図書室に集まった。僕ら二人だけではなく、Cの友達も男女の区別なくやってきた。本と木の香りのする図書室は毎日盛り上がっていた。机といわず椅子といわず、床にさえ座り込んでダベった。
 僕はどうかすると友達の中に紛れてしまうCに、自分のものにしたいという熱情から、いつも姿を見つけるなり真っ先に話しかけた。彼女は鬱陶しさを表すようなことはなく、僕たちは次第に仲良くなれた。
 知り合いから友達に、友達から恋人同士になるまでたいした時間はかからなかった。ある日の夕暮れまで二人でダベって、下校時間になってから自転車置き場へ連れ立った。それぞれの自転車のハンドルを握ったとき、失神しそうになりながら訊ねた。
「彼氏とかいるんですか」
 Cは驚いた様子だったが、すぐに口もとを笑いの形にして訊き返してきた。
――なんでそんなこと訊くの?
「いたら嫌だなって。僕はCさんが好きなんで」
 夕暮れで助かった、と思った。昼間ならば真っ赤になった顔に気づかれていたことだろう。Cはクスクス笑った。照れ笑いは僕にも伝染し、しばらく僕たちは何もいえなかった。
「つき合ってください」僕はようやくそういった。
――よろしくお願いします。
 彼女は小さな声で返事をした。
 そのときの僕の気持ちはうまく形容できない。生まれて初めて夢というものが叶ったような嬉しさだ。世の全てが完成する様子を見たとか、そのくらいの質量の感動だ。こんな素晴らしいことが起きたのだから、もう死んでもいいと思った。
 告白した日からの放課後は図書室で落ち合い、並んで自転車を走らせて帰った。僕はわざとゆっくり進み、互いの家への分岐点に着くのを遅らせて、彼女との取り留めのないお喋りに夢中になった。Cには薄闇がよく似合っていたので、その姿を目に刻み込んだ。ショートの黒髪、頬から顎にかけての柔らかなライン、周りの女子よりも長めの、膝までの丈のスカート。Cと話しながら、僕は一生彼女の姿を忘れないであろうことを予感していた。
 つき合い始めて二週間ほど経った頃、図書室で何度目かのキスをしたあと、彼女は遠慮がちに切り出した。
――前の彼氏が君に会いたがってて。
「何か話でもあるのかな」
――興味があるみたい。近いうちに会ってくれる?
 なんだか嫌なことだが、Cのお願いなら仕方ない。都合のいい日を決めて僕の家で会うことになった。
 両親がいない日、自分の部屋を手早く掃除して二人を待った。Cは二度ここへ来たことがあるため、前の彼氏を案内するとのことだった。落ち着かない中、家の中を歩き回っているとチャイムが鳴った。
 玄関で二人を招き入れる。僕の部屋に通し、雑な自己紹介を交わした。男はこれといって目立つ特徴のない奴だが、始終薄笑いを浮かべていたのが腹立たしかった。目つきは鋭い。その二つの表情から、こいつはサディストだと直感した。
 直感はある程度正確だった。実際はもっと酷いもので、男とCは長いことSMの関係をやっていたのだと、男がわざわざ口に出したのだ。奴隷であったCに御主人様であった男がどんなことをし続けてきたのか、具体的な話こそなかったもののおぼろげな想像はできる。
 部屋での会話は忘れた。そもそも僕はSMの光景が頭に浮かんでしまってろくに話せなかった。縄? 蝋燭? ギャグボール? バイブレーター? Cがそんなことをされていた?
 並んで座っている二人はとても自然に馴染んで見えた。二人だけがお互いの秘密を知っているという親しさがありありとわかる。目線の動きや話し方、何よりも彼/彼女がお互いそばにいることの気配になんとなく表れるのだ。
 男が先に帰り、少ししてCが帰ったあと、僕の何かが確実に壊れた。それは理性や正気といったものかもしれないし、運命や人生などというものかもしれない。何時間か、誰もいなくなった部屋でふさぎ込んだ。
 数日が過ぎ、僕とCは近場のラブホテルに入った。Cは部屋でなんでもないことのように振る舞い、手慣れた様子でこの遊びをした。僕は緊張していたものの、彼女に教わるように遊んだため問題はなかった。
 お楽しみはこれだけで、代償のように僕は狂っていった。眠れない。やっと眠ったとしても起きられない。頭では意識のある限りCのことを考えていた。僕たちが一緒にいないとき、彼女が男のところへ行っているのではないか、奴隷として性欲処理に使われているのではないかと思う。嫉妬に支配されたこの精神ではもう、ほとんど何もできはしなかった。
 携帯でメールを送る。考えたこと、浮かんできたこと、気の利いたものだと自分で思う文章などを日々Cに宛てた。既に登校することなどやめていて、授業中だろうが深夜だろうが関係なく送り続けた。部屋にこもりきりで、やることといえばそれだけだった。何か伝えなければ気が狂うであろうし、事実いま自分が危なくなっていることに気づいてはいた。しかし状況は変わらないままだ。
 二ヶ月もした頃、あまり来ないCからのメールがあった。男とよりを戻したという内容だった。
 僕は大量に酒を飲み、頭上にナイフを掲げ、自分の左腕に振り下ろした。白いもの、筋肉か脂肪のどちらかが一瞬露出し、しかしすぐに血が滲んで赤くなった。深い傷から数滴の血がカーペットに落ちた。思ったほどには出血しなかった。シャワーのように噴き出しそうなものだが、と酔った頭で思う。
 何度も斬り、刺してから気絶した。
 いくらか神経を傷つけたらしく、左腕にはあまり力が入らなくなった。深刻なのは握力だ。生卵さえ握り潰せないだろう。自分で巻いていた包帯が取れ、傷がかさぶたになりケロイドとして残ってからも握力は戻らなかった。
 自傷のあとは直接であれメールであれCに関わらなくなった。夏休みに死のうと決めたからだ。期末試験の初日、見納めのつもりで昼の学校へ行った。私服では目立ってしまい、入れたのは校庭までだった。校舎を見上げる。この短い高校時代、何がいけなかったのかといえば、僕も含めて何もかもが腐っていたといえる。一方で、いい悪いで語れない自然現象のようなものだったとも考えられる。だからたまには神や運命を呪いたくもなったが、呪うのもやはり無意味なことであろうから、もういいのだと諦めた。
 どうだっていいのだ。
 もうここに用はなく、早々に帰途についた。
 自分の部屋の床に、町にある全ての薬局から少しずつ買い集めた睡眠薬を広げる。百錠はあるだろう。一粒ずつ取り出し、ワイングラスに入れていった。酒でないものがこうして入っているのは違和感がある。しかし好ましさも感じた。これはなかなか愉快だ。毒杯というやつか、などと思って口をつけ、ざらざらと音を立てて含んだ。小瓶のウイスキーで飲み込んでいく。
 薬と酒を全て飲んで、三十分ほどは酒の酔いを楽しんでいた。世のつまらない万事から解放されるのだ、最後の酒が楽しくないはずはない。漫然と立ち上がり、ワイングラスを壁に投げた。破裂音は耳に残響をもたらした。派手で尖った音がやまない。うるさい、と思ったとき力が抜け、ガラスが散った床に倒れた。体のどこかが痛む。怪我をしたようだ。足が冷える。黒い雲のようなものに足から包まれていくのが見えた。ゆるゆると頭のほうへ上ってくる雲に腹まで喰われたとき、ようやく死を恐れた。叫ぶこともできない。恐怖のみがある最期、傷だらけの左手の指先だけがわずかに動いた。
 ……まぶたに白いものを受け、意識も真っ白になっている。ベッドの上で目が覚めたようだ。頭はぼんやりとして何が何だかわからない。起き上がろうとするが手足を拘束されているらしく、合革のバンドがミヂミヂ音を出すだけだ。もがいていると女の声がした。
――落ち着いて、だいじょうぶよ。
 たぶんそれをいったのは看護婦で、ここは病院だとわかった。
 次に目覚めたとき、手足のバンドは外されていて、多少は体を動かすことができた。ガラスが傷つけたのであろう部分、顎と肩にガーゼが当てられていた。両隣を見る。どちらのベッドにも死にかけの人間が寝ていた。右は老人で人工呼吸器をつけ、ぜいぜいと息をしている。左の中年は静かだった。
 集中治療室から一般の病室へ移れたのは、異常値を示していた血液が落ち着いてからだった。運ばれて四日経っていたらしい。移る直前、落ち着いて、といった声の主に会った。女医だった。
――気持ちよくなろうとしたの?
「それなら麻薬をやりますよ。自殺目的です。生きてるみたいなんで、失敗ですね」
 女医は少し黙って、それからいった。
――違う、成功よ。
「医療の?」
――自殺っていうもの自体が失敗した行動なんだから、生き残ったんなら成功じゃない。
「成功……」
――ギリギリだけどね。
 点滴を吊したスタンドを転がして新しい病室へ入った。六人部屋で、入口側のベッドをあてがわれた。左手の甲に突き刺さっている点滴の針を気にしながら横たわる。のんびりしようと思った。
 自殺未遂の直後というのはやけに平静な気持ちだ。何かのしがらみというものも感じない。親のことも学校のことも、Cについてさえある種のどうでもよさ、虚無的な考えで捉えている。その日の消灯後にわかった。僕は意志を示したのだ。自分も周りも、僅かながら知られた範囲でのこの世界も、自殺によって全て否定しようとした。死ななかったとはいえ否定の意志は明らかになった。行動によっていいたいことをいったのだ。だからさっぱりしているのだ。
 翌日の昼食後に両親が見舞いに来た。二人とも焦燥した面持ちだ。本を何冊か持ってきてくれたが、そのうち一冊は、僕もつらいけど悩んでないで明るくいこうじゃないか的な趣旨の本で、これはいらないといって突き返した。
 渡された他の本を読んで過ごして、一週間ほどすると血液の状態が健康的なものになった。後遺症はないと医者はいった。点滴も外され、夕方に父親が迎えに来た。
 久しぶりに歩いた町は賑やかなように思えた。ゴチャゴチャしているが鬱陶しくはない。静かだった病院から出たばかりなので新鮮なほどだ。そうして死ねなかった家へ帰った。
 一週間以上も風呂に入っていない。まずは頭や体を熱心に洗った。脂や汚れが落ちていく。風呂から上がると異様に爽やかな感覚がした。
 着替えが終わったところで父親に呼ばれ、リビングのテーブルで向かい合った。何か話していたが忘れた。説教だった気がする。唯一覚えているやりとりはこういうものだった。
「苦しんでることはわかってもらえないんだね」
――俺の家で死ぬなっていってんだ! 死にたきゃどっか他で死ね!
 何もかもどうでもよくなっている僕は、父親のその激昂に対しても思うところはなかった。自分の部屋に戻ってから携帯電話のチェックなどした。メールが一通だけ届いていた。Cからだ。文面を見ずに削除した。部屋を見回すとガラスは片づけられ、カーペットの血の染みをできる限り消そうとした形跡があった。机の下にカプセルが一つ転がっている。飲み損ねた睡眠薬だ。今夜はこれを正当に使用してぐっすり眠ろう、そう思ったが、あの女医がいったところの成功の記念として持っておきたくもあった。
 結局カプセルは机の引き出しに放り込んだ。
 Cは大学へ行ったそうだ。僕は高校を辞め、やる気のない日々を過ごした。

(続)

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