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『俺捨て山』 1/7

 かすみが漂う景色を見ていれば、早く目覚めてしまった朝でも退屈することはない。家の縁側に座り、申しわけ程度の草木がある小さな庭の、その正面にある田園を覆う乳白色の流れと、流れが途切れたときに見える遠くの山が相手をしてくれる。僕に絵画の技術があれば、きっと何枚でもこの風景を描いただろう。
 深呼吸をする。この山村の空気はいまごろのもの、つまり秋のものが一番おいしい。ひんやりと肺を満たしてくれる。あとは冷たいお茶でもあればいいのだが、あいにく烏龍茶も緑茶も切らしてしまっている。明日にでも町へ出て買ってこようと思った。
 薄闇がだんだんと明るい色になっていく。太陽が僕の住む家を照らす。かすみが散り散りになって消え、田園のこがね色がはっきり見えてくる。見とれているうちに空腹を覚え、縁側の引き戸を開けて家に入った。
 台所でチャーハンを作った。フライパンに油を引き、刻んだネギを炒め、香りが出てきたらご飯と細切れのハムを入れる。味つけは醤油と塩胡椒だけだ。
 できたチャーハンを居間に運び、安物の食卓に置く。いただきます、と呟いてスプーンを手にした。

 食べ終えると、食器を放置してその場に寝転んだ。天井を見つめる。小さな蝶が僕の上を横切り、窓のほうへ飛んでいった。ガラスにぶつかってバタバタと羽ばたいている。僕は目を閉じた。自由連想のように雑念が湧き上がってくる。
 数十分そのままでいてから起き上がり、食器を台所に運んだ。夕食後にまとめて洗う。
 居間に戻ると蝶はまだ窓際にいた。カーテンに止まり休んでいる。外へ出してやろうと窓を開けた。自分では出ていこうとしないので、閉じている羽根をそっとつまんで放り出した。蝶は地面にぶつかりそうになり、墜落する直前に羽根を動かした。地面すれすれに飛び、灰色の砂利の上に留まった。そのまま死んだように動かない。
 窓を閉めて居間を出る。廊下を数歩進んで『思い出す部屋』へ入った。六畳のこの部屋の隅にはたくさんの小物が置いてある。引っ越したときに持ち込んだ少ない荷物の一部で、娯楽を排したこの家で一人過ごすためのものだ。
 『思い出す部屋』の中央に大の字で寝転がった。吊り下がっている裸電球を見たまま頭の先へ腕を伸ばし、小物たちに触れる。それぞれの感触が指先に伝わり、無造作にひとつを掴みとる。顔の近くにかざし、それがあまり思い出を惹起させるものでないとわかった。一度立ち上がって小物たちのそばに座る。水泡で濁っているビー玉を手にした。

 五歳。
 保育園に通っていた。暗いホールの中にひとりでいて、開かれたドアからは光が差していた。ドアの向こうに見た初恋の女の子のシルエットを覚えている。園庭で別の女の子とままごとをしていて、お父さんおやすみなさい、といわれて僕は横になり、陽光や、時折それを遮る雲をまぶたの裏に感じ取ったことを覚えている。
 保育園から家に帰ったあとは夕食の時間まで近所を走り回った。一軒家が立ち並ぶ町で、家々を隔てる細く薄暗い路地を友達と駆けた。
 何人かいた友達の名前も顔も忘れてしまった。ただどうやって遊んでいたかは覚えている。子供らしく秘密基地を作った。花火のかんしゃく玉を怖がりながら踏んで鳴らした。かくれんぼも鬼ごっこもやった。近くの神社の祭りに行って綿飴や金魚を買った。
 それらの記憶の中に、雑な絵のように誰かが見える。年上の、しょっちゅう遊んでくれた少年だ。
 ある休日に少年の家のチャイムを押して、インターホン越しに彼の親に名乗った。彼はすぐに玄関から出てきた。
「――君、遊ぼう」
 僕がそういうと笑顔になって、いいよ、何をしようか、と応じた。僕は遊びについて考え込んだ。黙ってあれこれと考えている僕を見かねて、ちょっと待ってて、といって一度家の中へ戻った。僕は彼がまた出てくるまで考えていた。
 再び玄関のドアが開き、彼は赤い網の袋を持って出てきた。差し出された袋に手を入れるとジャラリと音がした。中に入っているのは様々な色のビー玉だ。
 これで何をするのだろうと思っていたら、工場に行こう、と彼はいった。
 僕たちが住む町の片隅に、廃業してからそのまま放置された小さな工場がある。粗末な作りで、外壁は押せばたわむような木でできていた。
 僕たちは工場の前まで来て、しばらく外壁を蹴りまくった。僕が蹴ってもしょぼくれた音しかしないが、彼が蹴ると工場全体が軋み、壁は靴の形にへこんだ。僕たちは、とりわけ僕ははしゃぎ、蹴りを入れながら工場の外壁を一周した。やがて彼が入り口の小さなドアをぶち破った。僕は笑い声を立てるのをやめ、彼の横顔をうかがった。彼はこちらを向き、入るよ、といった。入り口から見える工場内は灰色で、割れた曇りガラスからの陽光も頼りない。臆しているうちに彼は入ってしまった。
 中から僕を呼んでいる。おもしろいよ、来てごらん。ビー玉の入った袋を握り直し、暗がりへ進んだ。
 コンクリートの床を砂やほこりが埋めつくし、かすかな陽光は何かの機械をぼんやり浮かび上がらせている。天井が高いためひどく巨大な建物のように感じた。威圧的だ。壁を蹴ったことを怒っているような気さえした。
 彼はどこへ行ったのだろう。奥から物音がするが姿は見えない。恐るおそる音のするほうへ歩いた。彼は一番大きな機械の裏にしゃがみ込んでいた。廃材を漁っているようだ。鉄屑や木片、破れた布、そんなものが山を作っている。彼の手は忙しく動き、やがて廃材の山の中から鉄パイプを取り出した。右手で端を持ち、何度か軽く振ってみせた。先端が複雑な形をした機械の角に当たり、鋭い金属音が工場に響く。
 僕は興奮した。彼が持っている鉄パイプは頑丈そうで、力を振るうためだけのものに見えた。それを使って何かを壊してみたい。
 もの欲しそうな表情をしていたのだろう、彼は僕を見て微笑んだ。
――いいだろ? でもあげないよ。
 そういわれて落胆する。鉄パイプを探り当てたのは彼だ、だから彼のものなのだというのはわかる。でも、欲しかった。
 僕たちはそれから工場を破壊した。僕はビー玉を窓ガラスに投げて割り、彼は壁や機械に鉄パイプを振り下ろした。僕には解放感があった。これは、すごく楽しい。夢中になっているうちに窓ガラスを全て割ってしまっていた。息が上がっていて腕は疲れていた。
 見回すとほこりが大量に宙に舞っていて、その中に彼が佇んでいた。僕と同じように疲れた様子だ。全部で六つある機械はどれもひしゃげていて、長く伸びた部分は折られ、平らな部分には傷やへこみができていた。壁はところどころ穴が空きそうなくらい歪んでいる。
 彼と目が合った。
――よし、逃げよう。
 鉄パイプが投げ捨てられ、床でカラコロと音を立てた。音を合図に僕たちは走った。
 外の光に目を細め、隣町との境界まで来た。僕らは力尽きて歩道に座り込んだ。体はぐったりしている。けれど心は高揚していた。
 彼を見る。両手は後ろに回して体を支え、顔は俯いている。呼吸が整うのは僕より早かった。
 僕たちはそのまま話をした。話の内容は覚えていない。遠い記憶だからか、高揚のあまり話したそばから忘れていったのか。それでも、楽しかったという感情は思い出せる。
 夕暮れになって家路についた。歩いている間、僕はまだはしゃいでいたが、そんな僕が鬱陶しかったのだろう、彼はあまり反応しなかった。
 家々からの明かりと街灯が照らす道で彼と別れる。僕はぶんぶん手を振り、彼は片手を上げて応えた。
 以後、彼とはそれっきり会わなかった。
 自分の家に入ると服がひどく汚れていることに気づいた。顔もすすけていると母親にいわれ、とりあえず風呂に入ることになった。脱衣所でハーフパンツのポケットに何か入っていることに気づき、取り出してみる。投げ損ねたビー玉だった。
 おぼろげな記憶だ。ときどき疑う。彼は実在したのか?

(続)

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