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『俺捨て山』 4/7

 カプセルの青い部分ともう片側の白い部分をつまみ、真ん中の合わせ目から開けてみた。サラサラした砂のように薬品が出てくると思っていた。だがそうはならず、薬品は内部にこびりついて出てこなかった。相当古いものだからこの劣化は当然だ。いまでも効き目はあるのだろうか?
 カプセルを閉めて小物たちのほうへ転がした。ゴチャついているその一隅に紛れ込む。次に拾い上げるときはよく探すことになりそうだった。
 どっぷりと記憶に浸っているうちに夜になっていた。電球が眩しいくらいだ。障子を開け、古びた雨戸を苦労して閉めた。このボロボロの雨戸でもそれなりに役に立つ。雨を防げるし、外気が入らないようにもしてくれる。
 腹が減っていた。ぐるぐると音を立てている。食事にしようと台所へ入った。
 今朝の残りのご飯をよそい、鮭の切り身と納豆を冷蔵庫から取り出した。茶碗のご飯の上に鮭を乗せてレンジで温め、この三品を盆で運んだ。
 居間に座り、いただきます、という。いつかの法事で寺の僧侶が説明していたのを思い出す。生きものの命をいただきます、というのが本来的な意味なのだそうだ。感謝しなければならないのだ、自分を生かしてくれる犠牲としての食べものに。僕などは感謝どころか謝罪してもいいくらいなのではないか。
 黙々と食べて、平らげると台所の流しに食器を置いた。それからまた『思い出す部屋』に入る。電球の下に座り込んだ。
 食後の気だるさに包まれている。半ば呆然としているとカリカリという音がした。音の方向を見る。昼間カマキリに食われていたゴキブリが動いていた。体の一部を食われたようで、左の後ろ足はなく、体を引きずるようにして進んでいる。僕はこの虫をしばらく見ていた。忌々しい虫だが、こうやって緩慢に歩くのならあまり気持ち悪くはない。それにこいつは僕と同じだ。のろのろ這って部屋から出ていくまで見ていた。
 早起きしたせいか、幾分眠い。あくびをした。涙が目に溜まり視界が歪む。
 もう寝てしまうのもいいが、少し物足りない。何か思い出そう。小物たちを漁り、人間の爪を手にした。

 何歳だったか?
 正確には覚えていない。二十歳を過ぎていたことだけはわかる。
 やりたいことも人生の目標もなく、遊んで暮らしていた。友達と酒を飲んで騒ぎ、カラオケなんかにもよく行く日々が一年ほどあった。その間は働いてはおらず、実にいい加減にダラダラと生きていた。建設的なことは一切しない。ただ生きているだけだ。
 バイトを始めることにした。遊ぶカネ欲しさだ。
 アルバイト雑誌を買って目星をつけ、誰でもできる簡単なお仕事です、という触れ込みの派遣会社に面接に行った。
 この面接には履歴書さえいらず、十畳ほどの事務所で用紙に名前や住所を書き、印鑑を押すだけだった。
 仕事が割り振られる前日の夜に確認の電話が来て、集合場所などの打ち合わせをするやり方だった。僕は入ってきた作業をできるだけ断らないようにし、週に四日ほど近隣のいろんな駅へ出向いた。
 仕事に少し慣れてきた頃に倉庫での作業が入った。パンフレットの運び込みと整頓だ。大きい封筒を数え、十通まとめて縦と横に、交互になるように鉄製のワゴンに積んでいく。これだけの労働なので確かに誰でもできる。しかし、誰でも、という範囲に僕は含まれなかったようだ。
 五日目、倉庫の責任者にパンフレットの総数を訊かれた。責任者は遠くから大声で訊いたので、僕も大声で応じた。隣で作業していた派遣の二人組が爆笑した。
――キチガイだぁ。
 笑い声の中、責任者は神妙な顔つきで僕のそばまで来て、改めて数を訊いた。僕はもう一度答えた。
 その日の帰り道でようやく気がついた。大声で数をいったときの発音がおかしかったのだ。恐らく、六百九十四です、というのを、ロピャキュチジュヨデスー、とでもいったのだ。ちゃんといったつもりだったが、周りにはそう聞こえなかったのだろう。キチガイ扱いされたのは初めてだったので当惑したまま帰った。
 二ヶ月ほどでその登録制のバイトを辞めて次のバイトを探した。データ入力、というのに目をつけて面接に行った。説明によると、出会い系サイトのサクラをやる仕事なのだそうだ。文章で女に成りすまし、男性客を騙して利用料を払わせるのだ。
 オフィスには三十台ほどのパソコンが並び、煙草の煙が濃く漂っている。それぞれのパソコンの前でバイトたちは淡々と文章を打ち込んでいた。
 僕は最初、サイト用のソフトの使い方や、どんな文章を書き込めばいいかを教わった。オールバックの男が指導に当たった。練習した文章を見て男はいった。
――いいもの書きますね。
 軽蔑のニュアンスがあり、たぶんそれは褒め言葉ではなかった。
 オフィスの窓際にガラの悪い連中がいた。その三人は上司がいないときは大声で喋り散らし、笑っていて、仕事をしているのかどうか怪しいものだった。
 客をおびき寄せ、とにかく長く会話する。元々が騙しなので、会いたい、などといわれたときは面倒だ。客のいる位置を訊き出し、パソコン内の地図を見て待ち合わせの約束をする。もちろんドタキャンということで客は誰にも会えない。こうして何人も動かした。
 誘いの文章はエロければいいというので、何とかして書き続けた。しかし次第に混乱してくる。僕は、誰でもいいから会いたいです、といったフレーズを多用した。気がつくとほとんどワンパターンに使っていた。
 窓際の三人はバイトたちの作業内容をパソコン越しにモニタリングしていたようだ。上司がいないある日、僕の文章が槍玉に挙がった。
――誰でもいいとかよー、これあいつの願望じゃねえの?
 何度も朗読して笑っている。やがて怒りが湧いてきた。ソフト上で殺す殺す殺す殺す殺す死ね死ね死ね死ね死ねと書いた。モニタリングしていた三人は黙った。書いているうちに本当に殺したくなってきたが捕まりたくはない。
 それなら、殺されるかもしれない、と相手に思わせればいい。僕は三人のいる机の前に行き、イカれた殺人鬼のような表情を意識して作った。真ん中の一人をその顔で凝視する。そいつは少し怯えているように見えた。
「腹、痛いんで」
 目を見開き、頬を片方だけ引きつらせてぼそっとそういった。え、と訊き返されたので繰り返す。
「腹痛いんで帰っていいですか」
――じゃあ……あっちの用紙に早退って書いて。
 普段よりずっとおとなしい声が返ってきた。三人のうち一人はキレたような目で僕を見ている。その目に怯み、逃げるように用紙を取りに行き、書き殴って真ん中の男に提出した。
 帰りの電車の中で涙が出てきた。気分を落ち着かせようと、斧を振りかざして三人の頭をカチ割る光景を想像し続けた。半ば本気で殺そうとしていて、何度かオフィスに引き返したくなった。
 給料は取りに行かなかった。もし行くならばナイフを隠し持つだろう。そして何度も刺して殺す。たぶんその一連の流れが絵空事でないから行かなかったのだ。殺せば捕まる。殺さなければ、何もせずにいれば捕まらない。僕は法を守り、法に守られた。
 怒りと悲しみに圧迫を受けて何ヶ月かを過ごした。忘れるということができない。いまからでもオフィスへ行って殺そうかと幾度となく考え、しかし苦労して打ち消して、人の代わりに段ボールをズタズタに突き刺し、切り裂いた。我に返ったときはいつも段ボールのくずが部屋の床に散っていた。
 爆弾や毒ガスの作り方を調べて昼を過ごし、マシェットやボウガンのカタログを眺めて夜を越えた。何も作らなかったし買わなかったが、きっかけさえあれば行動に出ただろう。もちろんきっかけなどあってはいけない。だから僕は引きこもって、他人に刺激されないように気をつけた。外出するときはナイフを持たないことを自分に義務づけたし、神経過敏を押さえつけるため耳栓で聴覚を遮断した。
 キレないために、殺さないために費やされた僕の労力に誰か気づいていただろうか? 同居している両親さえ知らない様子に思えた。数少ない友達も、以前と変わらないように接してくれている。
 だが僕は鏡を見るたびに思う。
 これは人殺しの顔だ。
 段ボールを突き刺すときには常に殺したい連中、倉庫の二人やサクラ業の三人を意識している。イメージトレーニングと同じことをしてきたのかもしれない。何百回と殺した結果、こんな酷い顔になった。目には人形のそれよりも感情がなく、ただ黒く、冷えびえとしている。蒼白の顔色は悪魔や死神を連想させ、笑ってみても和やかさなどない。鏡が告げた気がした。お前みたいなやつのために刑務所がある、お前はいずれ殺し、全ての希望は潰え、刑に服して知るのだ、自分は絶対に生まれてはならない人間だったのだと。
 気分が沈むため、いつからか鏡を見るのはやめた。ひげが伸びたときだけは仕方ないが、手鏡で口元や顎だけを映して剃った。

(続)

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