2017/02/05 結局人を評価するときは自分と重ね合わせていることが大体

■人格って、一時の発言とかどんな思想を支持しているかとか、
そんな意図がこめられているものだけじゃなくって、
無意識の言動の積み重ねがそれなんであって、
昔のギリシアの人が「人格とは行動の繰り返しの総計である」とはよくいったもの、本当に。

しかしながら評価って、
その行動の総計を見た他人がするんであって、
この人どんな人なんだろう?と思ったときに、
この行動を起こしたのはこんな考えがあったからに違いがない、
と考える側の都合で解釈されるしかない。

■いま長らく付き合っている相手(現旦那)の考えるフローだとか、思考の筋肉みたいなもんは、
結局他人のものであって、本当のところは、一生知る由もない。
何を思っていたか懇切丁寧に説明をしてくれたとしても、
やっぱり言語化されてく時点で、いろんな思惑をもって加工されたものになることは致し方なくって、何にもコーティングもしくは歪められていない事実をブレなく伝えられることなんて、ない(これも私の考えであって本当を話す人もいるのかもしれない)。

■そんなこんなで、話が戻るんだけど、
付き合って五年になる相手の評価については、結局私のフィルターを通した解釈によるもの。
私のなかの、彼は、他人は自分より劣っていて、
常に勝ち負けの勝負が決まる相手であって、
とにかく常に勝っていなくてはならないと、
そう思っている気がしてた。
職場の人と必要以上に交わらないのもそんなことが要因かと思った。

なんとも嫌なやつだと思って、
かわいそうな人だと思った。
自分は、他人は発見の宝庫だし、
勝ち負けだと思った瞬間に有意義ではないと思った。

■と、さっき書いたように思ったんだけど、
よくよく考えたら、かわいそうなやつだ、
私は違うけど、という、私の本質的な性格がどうしても滲み出た解釈になっていることに、
ふと気がついた。

というのも、
あなたって、こういう気質が性分にあることがすごく見え隠れしてるっていう話をしたときに、
本人にそれらしい自覚もなく、
負けず嫌いに相違はないけど、反射神経的な反応としてそれがあるだけで、
日にち他人を見下し続けているわけではない、
と、きょとんとしてたから。

■彼が言語化したものも、
結局さっき言ったように人にどう受け止められるか、
考慮した上でのものだから、
事実なのか検証のしようもなく、
なにかしら本心があったけどこう言ったほうが得だ、
みたいなバームクーヘンのような事実が存在してて、
それ以上でも以下でもなく評価の仕様がないけど、
わかったこととしては、
彼の嫌なところ(私から見る)は、自分の嫌なとこだった。

■他人を評価するときは自分の思考回路で考えるから他人の言動の背景にあるであろう、
想像した思考回路は自分ならではのものであって、
自分がどんな人間なのか嫌でも知ることになった。

それに気がついたときに、
他人を理解しようとしたときに、
できることというのは想像することだけじゃなくて、
自分の気質をわかったうえで考えないと、
本当の相手の思考が浮かび上がってこないし、
真摯に話し合うしか方法がなかったり、
となんか堂々巡りな絶望的な気持ちになったけど、
例えばそこから離れた第三者に事実だけを伝えた上で評価してもらったりとか、
利害のない人間からの考えをもらったりとかで、
その事実への色んなルートを知っていくしかないのかも知れない。

■占い師の需要がなくならないのも分かるわあ、
と思いながら、数少ない友達に彼の時々あるひどい発言について相談してみたら、
彼に対し私が思ってた通りの評価がされて、
うーん、にたもの通しのカップルだったのか私たち、
と思ったら彼も自分も心底かわいそうなやつらだと思って、
まずはこのままじゃだめだ!と思うためには別れたほうがよいのだろうなあ。

(すっごい昔の日記を自分のために再掲)

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