サドル狂騒曲84 赤い怒り

「 入れ。鍵はかけておらん 」
 
 静かだけど威厳のある声が聞こえて私はドアを開けた。中は暖かい。奥に暖炉の火が燃えているのが見える。私は頭を下げて次のお言葉を待った。
「 顔を上げろ 」
 頭を上げようとするけど、緊張で上手く動けない。どうしよう、さっきまでは平気だったのに、やっぱり本人の前に立つとあの時の場面がどんどん頭に溢れて来る。縛られて、胸を土足で踏まれた痛みが蘇って全身を走る。

 負けるな青葉、顔を上げるんだ。

 コーヒーの香りに惹かれるように、私は顔を暖炉の横に向けた。
 眼鏡をかけて大きな椅子に座った幣原様は静かに本を読んでいる。真っ白いシャツと緩めたタイはシルクで膝にかけたブランケットは上品なグレーのカシミヤ。サイドテーブルに置かれたシガーケースとティーセットは代々伝わる幣原様専用の品。

 こんなすごい逸品に囲まれて読書に耽っている姿を見たら、あの日の残酷な仕打ちをした人間と同じだなんて思えない。それとも、この人はいくつもの顔を使い分ける本物の「怪物」なのかも…

「 いつまで黙って立っているんだ。早く用件を話せ 」

 私は心を決めて、幣原様に近づいた。柔らかいコロンと、酸味の効いたコーヒー、それにいがらっぽい煙草の匂いが強くなっていく。

「 幣原様、急なのですが、約束を果たしにきました 」

 幣原様は初めて顔を上げて私を見た。いきなり怒鳴られるかと思ったけど、眼鏡の奥で光る眼は柔らかい。

「 お前と約束をした覚えなどないぞ 」
「 処女を、差し上げに来ました 」

 私は目を逸らさず胸を張った。ここまで来たら、もう逃げる事は出来ない。心臓の音がトクトクと指先まで伝わってくる。
「 … お前の処女は、あの小僧が投資の対象として500万で一時的に買い取っておる。勝手に私が償却すれば、それは重大な契約違反となる 」
「 お金は、もうチーフ達に返して下さい。後は約束通り私を抱いて下されば… 私は北海道へ帰ります。そうすればみんな元通りになって… 幸せに… 」
 どうやって言葉を繋いだらいいかわからなくなって、私は口ごもった。幣原様はケースに手を伸ばして煙草を取ると火をつけて眼鏡を外した。
 目がさっきと違う。冷たい凄みがある。
「 お前たちに何があろうと私には関係ない。しかも話が二転三転するとはどういう事だ? 」
 私は言葉が出ない。その目に見つめられて鎖で縛られたように立っているだけだ。怖い、どうしよう… 
「 服を脱げ 」
「 え… 」
「 どの程度手入れしているか吟味してやる。早く脱げ 」
 言われるまま私はブラウスのボタンを外して脱ぐと、スカートのファスナーを下した。キャミと靴下を取ったら、もう下着だけだ。
「 何をしておる。全部脱げ 」
「 あの、ここでですか… 」
「 そうだ 」
 抑揚のない声が返って不気味で恥ずかしさよりも不安が募る。ブラのホックを片手で外し胸を隠しながらそろそろと床に落とした。どうしよう、こんな明るい場所で見られながら脱ぐなんて、無理だ。
幣原様は急に立ち上がると私に近づき、顎を掴んだ。
「 嫌っ、痛い!」
「 まだ半年も経っておらぬのに、そこそこ美しくなっているな。ふん、大して期待はしておらんが、多少はいたぶり甲斐がある体になった。小僧どもによく可愛がられていると見たが、何を施してもらった?」
「 離してください… 」
「 戯言を言うな。抱かれに来たのはお前の方だろう。道理のわからん辺り、中身はさほど変わってはいないようだがまあ良い。そのベッドに上がれ 」
 手を離されてよろめいたけど私は胸を隠して部屋の真ん中に置かれたキングサイズのベッドに座った。幣原様には背を向けて、体を丸めて固くなったまま下を向く。本当はこのまま死んでしまいたい。でもそれは全部終わってここから私が消えてしまった後でも出来る。

お願い、早く終わらせて。

震えを隠すために、両手を覆う腕に力をこめた。でも幣原様は私から離れて飾り棚からグラスとブランデーを取り出した。

「 勝手に見物客を連れてきたのもお前の仕業か? 」
「 見物客?」
「 聞こえるだろう。こちらへ走って来る足音が。外で派手な車の音がしたと思ったが… 」

 その言葉が終わるのとほぼ同時にバンと音がしてドアが開いた。

 「 青葉 」

 もう誰が駆け込んできたか振り向かなくてもわかる。恭平さんの香りがこの息苦しい空間に舞い降りて私を包み込む。ホッとして、とうとうこらえていた涙が流れて膝に落ちた。

「 今宵は楽しい余興になりそうだな 」

 笑いながら響く声の彼方で恭平さんの赤い怒りが音を上げて渦巻いている。



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