サドル狂騒曲88女神と毒婦



 会長の後ろには相本部長が立っている。会長が拳銃をスッと横にそらすと、相本部長は白いハンカチを広げてそれを受け取った。

「 相本、もし卿がおかしな事をしたら遠慮せず頭を打ち抜きなさい 」
「 かしこまりました 」

 相本部長は目線を幣原様に合わせると、静かに拳銃を右手に持ち替えた。あまりの冷静さに怖さを感じる。
 会長はベッドに近づき、恭平さんの手を縛るタイをほどいた。恭平さんは喉を押さえながら起き上がると、大きく息を吐く。私が顔を上げたら抱き起こして裸の胸で抱きしめてくれた。

「 生きていて、良かった… 」
「 恭平さん、ごめんなさい、こんな目に合わせて… 」
幣原様は無表情で会長を見ていた。さっきまでの鬼の仮面は剝れて、抜け殻になった瞳が別人のようだ。会長は目の前でタイをさらりと落とすと微笑んだ。
「 如月、服を着たら北岡を連れて出ていきなさい。二人との明日から1週間特別休暇を与える。傷が治るまでは静養すること。その体で接客は出来ないわ 」
 ベッドを離れると恭平さんは拾った服を着て私の肩を抱いて靴を履かせてくれた。背中が突然痛み出して苦しい。
「 歩ける?」
「 ええ、大丈夫 」
 恭平さんに支えられて歩き出すと、相本部長はゆっくり口を開いた。
「 如月主任、八王子駅前にあるうちの提携病院に行って治療しなさい。もう先方には伝えてある。救急搬送口から入れば誰にも見られない 」
「 部長は、どうするんですか 」
 恭平さんの問いかけに相本部長は首を振った。

「 何もしない。ただここで起こる事を見守るだけだ 」

 私と恭平さんは、そのままドアを開けて外へ出た。木の階段を下りる間私と恭平さんは無言だった。私は何故幣原様に抱かれに来たのかを問われると思っていくつかの言葉を用意していたけど彼は何も言わない。私が倶楽部へ来る前の平和な日々に戻ってほしかったと言ったところで喜ばないのは分かっている。でも、もうそうするしか私に出来る事はなかった。

 「 雄太が、青葉の事を心配している 」

 玄関を出て外気に触れた後ようやく恭平さんは口を開いた。少し温かい風が吹いて全身に張り付いた毒が流れていく。

 「 雄太さんと私はもう何の関係もありません 」
 「 青葉、以前も話したけど、俺と雄太は恋人同士じゃない。魂のもっと奥で結ばれている。だから別れるとか切れるとか俗っぽい表現は必要ない。だから青葉が俺たちの関係に気を遣う必要はないんだ 」

 駐車場に止められた赤いスカイラインが私を出迎える。助手席のドアを開けると恭平さんは着ていたジャケットを脱いで私の体にかけた。

「 背中が痛いだろう。シートにもたれてもこれなら大丈夫だよ 」

 恭平さんは笑った。 その笑顔がとてつもなく痛い。すんでのところであの狂った侯爵の殺されかけたのに、こんなに優しくしてくれるのがどうしてなのかわからない。思えばそれだけ、厄介者の自分が消えてなくなればと願ってしまう。返事の代わりに、涙が手の甲に落ちた。

「 傷が痛むの?今から手当してもらえるよ 」
「 ごめんなさい 」

 私は声を上げて泣いた。恭平さんはエンジンのスイッチを入れて私を抱き寄せた。

「 帰ろう 」
「 何処へ帰るの… 」
「 俺たちが、行き着く場所だよ 」

 車はゆっくりと動き出した。車の中を照らすライトの影で、私と恭平さんが寄り添い揺れている。その振動が切なく心地よくて、私は急に深い眠気に襲われた。



 キングサイズのベッドの上で、緋呂子の髪が白いシーツの上を泳ぐ。

 時折荒い息遣いが聞こえる他は静寂で、古めかしい家具に囲まれた空間は愚鈍に時を刻んでいる。だが裸のまま精を貪り合う幣原と緋呂子の周りだけは凄烈な情と赤い血に魅せられて業の炎を放つ。ようやくひとつに繋がった後動きが止まった二人は、呼吸を潜めて運命の瞬間を伺っている。

 幣原から流れ落ちる鮮血にまみれた緋呂子は笑っている。その顔を見つめる幣原は33年前初めて緋呂子に出会った日を思い出していた。

 俺はすっかり変わり果てたが、この女は変わっていない。女神と毒婦の顔を持った奇跡の女。唯一俺を翻弄できる、そして甘えさせてくれる神のもたらした金貨。

 幣原の夢想を突き破る如く緋呂子の細い腰が妖艶に動き出した。

 そして二人は、堕ちてはならない淵へ向かって嵌っていく。


 離れた場所で狂宴を見守る相本に表情はない。

 ただ、鋭い目と右手に収まる鉄の塊は、標的に向けて標準を合わせ続けている。




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