サドル狂騒曲75 不吉な予感

 雄太は自宅には帰らず倶楽部の厩舎で一夜を過ごした。餌の飼い葉が薄いシート状に固められ積み上げられた倉庫で当直室から持ってきた毛布を引き寝転がったまま天井を見つめ続ける。寒さは感じないが、怒りも悲しさも寂しさも湧かない。長い間育んだ恭平への愛が一瞬で持ち去られた虚無感なのか、その手口の鮮やかさ故に傷口や痛みひとつ残さず思い出を消した恭平への感謝なのか。煙草を手にする衝動すら起らない程雄太の内面は燃えつきて、冷えた灰から立ち上る思い出の余韻に身を任せひたすら夜が明けるのを待ちわびていた。

俺はこのまま、恭平と別れるのか。俺を蹴飛ばし青葉を守った姿は俺の知っている恭平では無かった。だが、寧ろそれが何か清々しいものを感じさせた。中途半端に責める言葉や探りを入れる仕草は俺たちに無用だ。恭平が俺に向けたのは敵意ではない。俺を愛するがための決別だ。美奈子を進藤家の謀略から守ろうとすればするほど、美奈子は俺に近づき俺は美奈子を受け止める。俺は目を持たない美奈子のそばに無性に寄り添おうとしている。そう。恭平は最初からわかっていた。
 進藤の家を断絶させる事は、俺には出来ない。嫡男として生まれた時から抱えた俺の宿命に、恭平は向き合って尚俺を愛した。だから、何の後悔も迷いもなく愛し合い、離れていく
 恭平、やっぱりお前はすごいよ。完全に俺の負けだ。

 雄太は笑っていた。窓から朝靄の匂いが漂うと飼い葉の濃い緑も一層際立って1日の始まりを告げる。この場所は。夜の帳に紛れて何度も恭平を抱いた場所だった。絹の髪に白い肌、薄い唇から漏れる吐息と震える舌。雄太の体は何もかも覚えている。しかし恭平との別れは死を意味すると思い続けた日々は一瞬の断絶でその色を変えた。雄太は半身を起こして唇に手を当てた。青葉の大きな目と弾ける笑顔がよぎって、消える。

 きっと幸せになれる。そして恭平を幸せにできる。

 雄太は立ち上がって厩舎を出ると更衣室へ向かった。夜明けは近い。東の暁を見てふと雄太は幼い頃のわずかな記憶が蘇った。幼稚園へ行くのが嫌で、母の胸にしがみついて泣いていたらどこからともなく大きな手が伸びて雄太の体を抱き上げた。母は笑いながら雄太の背を撫でている。手の主は父だ。そのまま雄太は父に抱かれて邸宅を出て国道へ降りる長い坂道を歩いていく。父の胸は温かい。雄太は泣き止むと軽い眠気に誘われて顔を父の肩に押し付けた。濃い煙草の香りが心地よかった。
「 ユウは父様が好きなのね 」
母の声は若々しくて健康的だった。父の顔は、覚えていない。

父親になる日が来る予感は、思いの外甲高い胸騒ぎだった。

山の稜線から覗く朝焼けがはだけたジャケットから見える雄太の素肌を照らす。見慣れているはずの馬場を埋める砂がきらめきを反射して光る様を、雄太は珍しいものを見るように凝視した。


「 ねえ青葉、話聞いてる?」
 私はハッとして孝之を見た。昼ごはんをいつもの場所で二人で食べていたけどいつの間にか物思いにふけって孝之の話をスルーしてしまったみたい。
「 ごめん、ぼーっとしてた。何だっけ 」
「 どうしたのさ… 最近全然人の話を聞いてないじゃん、おかしいよ」
「 ちょっと色々あってさ、許してよ 」
「 僕の誕生日に一緒に映画を見に行こうって言ったじゃん。返事はどうなの 」
 孝之は黒い重箱に詰まったステーキ重を食べながら怒っている。そういえば誕生日と障害3級に受かったお祝いをしてあげると言ったっけ。でも私の頭の中は先週の衝撃からまだ混乱しているままだ。

「 俺は、青葉と結婚する 」

恭平さんの言葉が何度も頭の中でリフレインする。1週間経って少しづつ実感がわいてきた。私はプロポーズされたんだ。でも雄太さんは… 私は確信してる。あの二人はまだ愛し合っているはずだ。

「 青葉とデートするからママに頼んで新しい服を買ってもらったんだ。ブランドの限定品だからゲットするの大変だったんだぞ 」
「 やだあ、私は庶民だからそんなセレブとは釣り合わないの 」
「 ねえ行こうよ。映画の後は行きつけのフレンチでフルコースを予約するからさ 」
 最近、孝之は妙に私に絡んでくる。こいつってば結局学校は全く行かなくてここに入り浸りだもん。4月からどうやって中学校に行くんだろ。まいいけどさ、私には関係ないし。
「 一緒に行く代わりにさ、今日の夕方新宿で私のショッピングに付き合ってくれない?ちょいフォーマルのスーツを買いたいの 」
「 いいよ!行く行く! ママに電話して早く迎えに来てもらわなきゃ… 
新宿駅の南口なら家から近いな。そこでいいよね 」
孝之はポケットからスマホを取り出した。今週末は名誉会員のおじ様が絵の発表会をするみたいで、なぜか私が恭平さんにくっついて招待されている。レディ育成コースの修行なのかもしれないけど、お洋服やら靴やらで出費が多い。もらったチップ、貯めといて良かった。飯森さん、ありがとうございます。
「 青葉もう食べないの? 大食いのくせにダイエットでもしてるの? 」
 食べかけの弁当を閉じた私を孝之はいぶかし気な目で見る。確かにあれ以来あまり食欲がわかない。食い意地も吹き飛ぶほどの一大事だもん。恭平さんと二人でパーティーにお呼ばれなんて本当は夢みたいなのに、雄太さんの事を想うと心が… 出来ればもう一度3人で仲良くしたいのに、もうそれは無理なのかしら。

「 そういえば、青葉は進藤先生と最近話した?」
「 ううん… シフトが全然違うもの。それに今月は障害の関東選手権に参加するから練習で東京まで通ってるみたいだし 」
 謹慎明けの復帰戦だ。ハートの足も完治したし、去年から調整に励んでいたから本番はきっと楽勝に違いない。雄太さんのジャンプは別格だもの。こんな事になっていなければ、私たちで優勝をお祝いできるのに。
「 進藤先生、来月で退職するんじゃないの 」
「 は、何言ってんの… そんなはずないじゃない」
「 僕、昨日進藤先生が相本先生と言い合いしてるのを見たんだ。しばらく立ち聞きしたけど、多分進藤先生、辞めるつもりだよ 」
 
 雄太さんが、倶楽部を辞める… 

 私は驚きで、頭が真っ白になった。午後のレッスンがあと10分で始まるのに、何もかもが消し飛んで何も考えられない…



 「 良いこと… 美奈ちゃん、何もかも雄太さんの言う通りにしておけばいいのよ。余計な事は考えないのよ 」

 藤子に髪をブラッシングされながら、美奈子は神妙に頷いた。後30分後に雄太がここを訪れる時刻になるが、瑞枝と藤子は朝から慌ただしく動き回って美奈子にお祈りの時間も与えていない。昨晩入浴したのに、朝からもう一度シャワーを浴びるようにせかされ普段はしない化粧も念入りに瑞枝が施した。

 婚約者があいさつに来るってそんな大げさにおめかししないといけないのかしら。
 美奈子は髪を丁寧に梳く藤子の指先から異常な緊張感を感じていた。
 
 瑞枝の用意したピンクのワンピースは色白の美奈子によく似合っていた。その上、濃い目に引いたアイラインが大きな瞳をくっきり彩って幼げな顔に甘い色香が重なって清楚と淫らが緩やかに交錯する。美奈子は自分の姿が見えない故に表情はいつもと変わらずあどけなく柔らかい。アンバランスが生み出す不思議な雰囲気は何のためなのかを、美奈子は知らされてはいない。

 突然、呼び鈴が鳴り驚いた藤子の手からブラシが落ちる。美奈子は静かに拾い上げてたなびく黒髪に当てた。

「 雄太さんをすぐにお連れするから待っていてね 」
 いつもと違う上ずった声で出ていく藤子を背中で伺う美奈子は密かに胸に手を当てた。

 いただいた下着を着たけど、どうやって見せたらいいかしら。

 騒がしい居間の様子が伝わって来る。雄太がすぐそこまで来ていることが急にうれしくなって、美奈子ははにかんだ微笑みを浮かべた。



 

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