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「お父さん、地球の大きさって5億?」

初めて聴いた言葉の羅列だった。

今日は久しぶりに地元の観光地に用事のついでに寄ってみた。予想に反して人も多く、年始からやっぱり賑わうんだななんて思いながら歩いていたらこの言葉がちょうど斜め前の少年から発せられた。

知り合いでもない人たちの会話を聞いて笑うもしくは反応を見せることを私がしようものなら通報されてもおかしくないので、ツッコミたい気持ちを抑えながらnoteを開き、タイトル部分だけ打ち込み下書きに保存をした。こういうことやっちゃうのってnote書いてる人あるあるなのかもしれない。これで1つ書けるかもみたいなものを下書きにストックしておくみたいな。

あるあるネタは一旦置いておいて、個人的になぜツッコみたくなったのかを書いていこうと思う。皆さんならどうツッコむか想像しながら読み進めて欲しい。

①なんで「ここ」でその話題思いついたん!?

私がこのワードを聞いたのはとある「城」でのことだった。地元では有名な観光地で年始ということもあってか人出も多かった。城の天守閣へ向かう道中に段差になっている道がある程度続いているのだが、その中腹で突然に「お父さん、地球の大きさって5億?」って聞きたくなったことに個人的にまずツッコみたかった。幼い男の子の考えることはなんとも壮大だ。大人はきれいやら、映えるやら、疲れたやらと常にただただ目の前の感情を吐露しているだけなのに、あの少年は城を登りながら地球の大きさを考えていたなんて思うと大人であることの残念な部分を突きつけられたようだ。日常が「?」に溢れていること、些細な「?」に素直であれること、これさえ持っておけば毎日はずっと楽しいのだ。大人はこれを知ったかぶりしてしまう悲しい生き物なのだけれど。

②5億ってなに!?

「地球の大きさってどれくらいなん?」ではなく、
「地球の大きさって5億?」って聞くセンスたるや。
いや、その5億どこから出てきたん!?!?

(ここで「そんなのその子が知っている一番大きい数が5億なんだよ」なんて言ってくる大人とは友達になれない。そんなありきたりなことを堂々と言うようになったらもう「この世を全て知った気でいるやばい大人」の仲間入りだ。)

まぁ上の文章は置いといて…。

この少年にとって「5億」とはどのくらいの規模感なのだろう。
大人が認識している5億と、この少年が認識している5億は明らかに異なる。これは正直羨ましい。喉から手が出るほどその感覚を味わってみたい。しかし大人側はどれだけあがいてもこの少年の5億を体感できない。5億が地球の大きさと結びつくような視点で世界を認識することは、たとえ意識したとしても絶対的に不可能なのだ。この少年にはこの世界がどう見えているのだろう。今目の前に見えている城はどう見えているのだろう。何を感じているのだろう。聞きたいことが頭の中に駆け巡ってしまう。少年が何となく声に出した質問はなんとも22歳の大学生にとっては衝撃的で、羨ましくて、ツボに入るくらい面白かった。

③いや両親、ツッコまんのかい!

うちの地元には「ツッコミ」や「ボケ」という概念があまりない。それは実家に戻る度に強く痛感する。大学生活を関西で過ごした私と、同じように大学時代を関西で過ごし就職した兄は「ツッコミ」と「ボケ」がインストールされている。誰かが変なことを言えばツッコむし、場を盛り上げるためにボケたりもする。しかし家族はそのときただニコニコしているだけで、特に何もしない。そんなことが今回の場面でも起こっていた。

「お父さん、地球の大きさって5億なん?」
「へえ~、そうなん!」

いや、ツッコんであげてよ!?!?
普段からこの少年はご両親にこういった質問を投げかけるタイプで、それに慣れているご両親は反射的に受け答えをしてしまったのかもしれないが、「関西」を履修してしまった私からすれば、この状況は重大な裏切りである。「ボケ」は「ツッコミ」があるという前提の行為であり、ツッコまないというのは言語道断なのだ。(ツッコまないという面白さも当然起こりうることではあるのだが)

ちなみにここまで脳内では十数秒で駆け巡っている。
これを引っ張りださないと眠ることが出来なさそうだったので安堵している。この少年のおかげで今日はかなり楽しい日になった。
ありがとう、少年。

ここまで1700字以上何を書いているのだろうと自分でも思ったが、こういうことに気づけたのもnoteを書いているからだ。多分何気なく過ごす日常でならば忘れてしまう喧噪も1つの楽しみになる。こういうことを面白がれる大人でありたいと切に願う。

おわり

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