「何で生計を立てるか」というはなし

振り返ったとき、もっと幼い頃から考えておけばよかったと思うことが多くある。その中でも「何で生計を立てるか」ということをもっと広く、深く考えられていれば…と思う場面に出くわすことが多い。これは自分自身のことだけでなく、周りの人を見ていても痛感するのである。

私たちに幼い頃に投げかけられる問いの中で厄介なのが「大きくなったらににになりたい?」「将来の夢はなに?」といった類のものである。これらの質問には「生活」の視点は含まれておらず、職業選択と生活がリンクしないまま私たちは大人になってしまう。

しかし社会人になって痛感するのは「何で生計を立てるか」という問いに対して自分なりの答えを持つことは、ある意味その人の思考や社会とのスタンスを明確にすることと同義であるということである。そこがぼやければぼやけるほどに、ジレンマが生まれ、仕事に対してのモチベーションや意義についての疑問符が多くなっていく。

何かを売る仕事に就いたと仮定したとき、取り扱う商材に対しての納得感の有無は必ず付きまとってくる。これを売ることで社会に対してプラスの影響が与えられる、誰かが喜んでくれる、そんな手ごたえを感じられるものならば間違いなくやりがいを感じるだろう。それを売ることで貰える給料で生計を立てる。それがその人にとってのスタンスになる。そのスタンスは他者が手を加えられるようなものではなくまっすぐで尊い。

「生計を立てる」とは言い換えれば「何の対価として金銭を得るかということ」だ。ケーキ屋さんであれば美味しいケーキの対価としてお金を得ること。大工であれば快適に住むことが出来る家を施工する技術の対価としてお金を得ること。何を喜びにして仕事をし、生活していくか、そんな対話をもっと自然に、もっと色んな人の考えを知るだけでも全く違う人生を歩む人が増えるのではないかと思う。

私たちの幼少期に欠けているもの、その根幹が「生活」なのだと思う。
私たちは「生活」を軽んじすぎている。
「生きて生体として活動すること」、「世の中で暮らしていくこと」とはどういうことなのか。もっともっと自分の中での解像度を上げながら、他者の生活について知りたいということなのかもしれない。もう少し考えて整理して書き直したい…。今回はここで終わり。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?