「食が遺す(のこす)もの」

今朝のNHK「おはよう日本」で紹介された鹿児島市役所地下食堂閉店のニュースに、心が揺れました。ちょうど出勤前のメイクをしていたのですが、涙と鼻水が止まらなくなって捗らず…。長年市民に愛されていた食堂が、コロナ禍や昨今の物価上昇の煽りを受け、値上げもせずに耐えていたそうだがついに閉店を決めたとのこと。

私の実家も、3代続いた手打ちうどんの飲食店を営んでいたので、ついこのような話題には大いに感情移入してしまいます。わが家は母が、祖母が、病で亡くなり、父も体調を壊し自然消滅のようなカタチで閉店をしました。なので、惜しまれて“愛されたまま”閉店を迎えたということは、本当に立派だと思うのです。

「美味しさ」という信頼。きっとそこには、店やそこに集う人の絆や繋がりといったものが働いてると思います。実際わが家もそうでした。母が亡くなったとき、母を惜しんでくださる方は「娘を見送った母親」である祖母を心配して通ってくださるお客様が多かった気がします。祖母が私の就職の際に“惜しまれる存在になりなさい。惜しまれる仕事をしなさい。”と教えてくれたことが、今でも忘れられず仕事をする上で大切にしていることです。

食に携わる仕事は、カタチに残らない仕事だと思います。食べたらなくなるとわかっているのに、知恵を働かせ手をかけて、食べる人を想い心を込めます。食べるほうにとって「美味しさ」はあまりにも当たり前です。家庭料理でも学校給食でも、数多の飲食店でも…。料理は“消えてしまうものをくり返し再現する技術”として発展してきたと思います。「当たり前への努力」は“もうこの味が食べられなくなる”という危機に際して初めて気付かれるもののような気がします。(これは自分も母や祖母の味が食べられなくなって痛感しました。)

「食は命」生きている限り続く行動です。しかし、そこにはカタチがなくなっても“何かとの繋がり”が生まれているような気がします。作る人から食べる人への心遣い。“しょっぱくないかな?冷めないようにしよう…。”そんな心も提供されていたことを、食堂閉店を惜しむ多くの人を観て感じました。

作る人の心を味わっていただける「食の信頼関係」作り手冥利に尽きる終わりかたが、店はなくなっても「信用という尊い財産」を遺した…。
私も食で何かを残せたらいいなぁ…!

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