苦しみのプリキュア
極寒といえる気温の中、いかがお過ごしでしょうか。片山順一です。
新年二発目のnoteと言いながら、もう二月です。
そして周回遅れの話題ですけど。
最終回を迎えたトロピカル~ジュ!プリキュアについてです。
今回のプリキュアは、人々からやる気を奪う連中と戦っていました。このやる気は、愚者の棺に蓄えられ、魔女のエネルギーとなるのですが、それを放置すると結局世界が滅ぶようなのです。先日の放送回で、タツノオトシゴの敵の執事、その名もバトラーが、やる気を吸収して怪物となって襲いかかってきました。
この作品のキーワードは、今必要なことをやる。つまり今やりたいことにやる気を出して精一杯頑張ることです。それができている人は、主人公のまなついわく、『トロピカってる』素晴らしい状態になるわけです。
バトラーの所属する達は、基本的にこういうトロピカってる状態の人間たちから、自分たちが利用するためのやる気を奪って愚者の棺に蓄えていきます。
まなつたちプリキュアは、やる気を奪われてとろぴかれなくなった人々や、時には自分自身のために、このやる気パワーを取り返して、みんながトロピカる状態を求めて戦うのです。
やる気の質
ここからは、かなりセンシティブな話になりますが。
このプリキュアたちの敵は、やる気の対局にある、さぼるという存在ではなかったのです。特にやりたいことではないけど、とりあえず給料とか休みとか言われたから仕事をするとかいうのは幹部たちであって、敵の本質は違いました。
『みんなが必要だと思うことにやる気パワーを発揮してトロピカる』ことの対局。
それは、『してはいけないことにやる気パワーを発揮する』ことだったのです。
プリキュアが戦うのは、やる気の対局のさぼりではなく。
破滅に突き進むもう一つのやる気でした。
それが、凄まじい怪物に変化したバトラーのやる気なのです。
してはいけないことへのやる気
やる気とは、『何か』をやる気のことです。それが何であるかは、実は問いません。
目的の中には、必ず他者から色んなものを奪うものがあるのです。
プリキュアは子供向けだから、失われて欲しいやる気パワーは世界の破滅という抽象的なものになっていますけれど。
たとえば。
『あの個人が気に入らないから徹底的に潰そう』とか。
『あの思想だけは絶対に許せないから、この世から根絶させよう』とか。
『あの血筋、あの国家、あの民族だけはあってはならないから抹殺しよう』とか。
『もう人生に希望がないから自殺するけど、あいつらだけは許せないからできるだけたくさん巻き込んで道連れにしてやろう』とか。
そういう類の、やる気パワーもあります。具体例は出せませんが、そうなった個人が次々と現れ始めているのが、2021年から2022年二月にかけてのこの日本という国だと私は考えています。
世の中にとって望ましいことにやる気を出し切れず、競争に負け挑戦も諦め、何にも達成できない。あまつさえ、生きるための最低限の所得すら得られず、くすぶりながら生きている。
けれど、破滅に突き進むためのやる気パワーだけは、凄まじいほど出せるという場合が実際にあります。
トロピカれるのが、社会を人類を破壊し破滅に導くことでしかないような人間は、一体どうすればいいのでしょうか。
プリキュアの落としどころ
答えは、バトラー以外の三幹部が提示しています。
彼らは、カニのコックのチョンギーレ、ウミウシかナマコの女医であるヌメリー、エビのメイドであるエルダ。この三人は、最後にバトラーに追い詰められるプリキュアを助けて生き残ります。バトラーにやる気を奪われて何もできなくなっているはずが、実は奪うほどのやる気が元からなかったため、平気だったのです。
彼らはそれぞれの職業に高い適性を持っています。たとえば、チョンギーレは食事が不規則な後回しの魔女のために、どれだけ食べるのを後回しにしてもおいしく食べられるラーメンを作ります。またヌメリーは屋敷に住む幹部たちの体調をきっちり管理しています。ことあるごとに子供であることを利用するエルダだって、文句は言ってもメイドとしての仕事に手抜かりはありません。
それでも、特に自分たちの職業にそれほどの大々的な心もなく、ただ生きているのです。休みが欲しいとか、仕事が嫌だとかぶつぶつ文句を言いながら、ときにはトロピカろうとする人間たちの邪魔をしながら、彼らなりに。
そしてバトラーもまた、最後の戦いの後は、世界の破滅を願うやる気の全てを失い、よれよれのスーツでだらしなく生きるくたびれた人になってしまいました。
キュアサマーであるまなつは、これはこれでいいのかもしれないという一言と共に、やる気がなくなったバトラーを見逃します。
そう、プリキュアたちは許すのです。意識低く生きることを。べつにやる気パワーも出さず、とくにトロピカらず、日々の仕事を淡々とこなして生きているだけ、ということを。
やる気パワーを発揮して、自分にとって、社会にとって必要なことに突き進んでいく人のやる気パワーを奪うことは許しませんが。
べつにやる気パワーがなくても、生きていていいのです。
世界を破滅させるというやる気を失い、くたびれた一匹のタツノオトシゴに戻ったバトラーは、生きていくのです。それは、この世から完全に消滅した、前作の敵たちとは全く違います。
ダークヒーローになりたいというやる気
何だろうと、必死になっている人間は格好いいという風潮は、厳然と存在します。
私はお話を考えて書いていますが、経験的に、悪の中で最も嫌われ人気がないのは、信念のない小悪党です。状況や欲望、自らの勝手な感情に流されるまま、こんなはずじゃないと思いながら、ずるずると悪事を重ね、気が付けばとんでもない事態になっているのに、戻ることも出来ずに主人公たちと敵対して破滅していく。情けなく悲しいやつ。こんなのを倒しても、なんだか張り合いがありません。むしろ主人公たちが弱い者をいじめているように見えてしまいます。
同じ悪でも、強い信念を持ち、公然と残虐な行為や悪を行う者は、むしろダークヒーローじみていると賞賛されます。そういう悪でないと、戦う者達の魅力も出ないから、ますます悪には悪のカリスマが描かれ、悪は賞賛されていきます。
強固で悲劇的なバックストーリーを持ち、歪んだ認知で作り上げた強い信念で邪魔者を容赦なく倒す悪人は、とても魅力があります。彼らは、自分の願う破滅や殺戮、欲望へのやる気パワーに満ち溢れています。彼らの目指すみんなに迷惑をかける信念で、とってもトロピカっているからです。
だから、俺なんか、私なんか、もう終わりだと思った人が。
まともなことで、トロピカれなかった者が、悪に堕ちてでもトロピカりたいと願い、最後の輝きみたいにニュースに載ることを目指してしまうのかも知れません。
でもそれは間違っています。少なくとも、プリキュアという作品においては。
ではなぜそれが、明確に描かれていなかったのか。正義のやる気対悪のやる気という分かりやすい構図で描かなかったのか。
一見して、やる気のないやつがやる気のあるやつのパワーを奪って、足を引っ張るのを防ぐ、という構図で始まってしまったのか。
戦わない、答えないという選択
それは、戦ったら悪が輝いてしまうからではないでしょうか。
主人公に強い信念があり、それとぶつかる強い信念を持った敵対者との関係性で話を引っ張っていくという普遍的な面白い話のフォーマットは、悪役も輝かせてしまうからではないでしょうか。
それはできないのです。そうしたって、正義はますますいいことのために必死になり、同じかそれ以上に悪は破滅のために必死になるから。そして、そんな悪の方が魅力的だと感じて、悪に染まる者も増やしてしまうから。
これは、正義の方も同じで、みんなのために悪を徹底的に倒すという方法も、深まると凄まじい事態を引き起こすことを賢明な皆さんはご存じでしょう。
そういう物語は面白いけれど、子供達に向けて、面白いだけの話を作っていてはもういけない状況だから。
悪から、悪をなすやる気を奪われるという結果。それは、悪に正義で応えないという離れ業なのではないでしょうか。
ただのいい執事だったバトラーは、世界の破滅というやる気を失ってだらだらと生きていくでしょう。この結末は格好悪くみえるでしょうか。
けれど、彼は多分“一人で死に”ません。何となくだらだらと一緒に生きて来た、チョンギーレとヌメリーとエルダの三人は、だらだら生きていくバトラーを見捨てることもないでしょうから。
やりたいことにやる気を出してトロピカる。
やる気はないし、トロピカらないけど、とりあえず生きているだけのことをこなす。
二つとも、あっていい。
この不思議で柔らかい結末こそが、激しく揺れ動く2022年の世界において求められているということなのでしょう。
こんなはずじゃなかった人生に、最低限、他者を巻き込まないために。
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