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読書ノート 「文学部唯野教授最終講義・誰にもわかるハイデガー」 筒井康隆

 さすが筒井康隆、井上ひさしばりに「むずかしいことをやさしく」書いてくれていて、この本のまとめを書き記したいという欲求が生まれる。そこでまた悩みだし、これはノートに手書きで書き記すほうがいいのか、こうやってワープロ(pages)に書き記すほうがいいのか、アイディアとして今後活用するならノート、日々の読書日記でいいならワープロか、など逡巡してしまう。

 ノートに書き写すほうがいいのかと思ってしまったのは、じつは井上ひさしの特集が載っている「東京人」を読んでしまったからなのだ。ここには井上ひさしの執筆ノートの写真が数多く掲載され、その作品の形成過程をうかがい知ることができる。そのノート・草稿類の緻密さ、情報量の多さ、まめさを見て、ああ、ここまでするものなんだ、やっぱり井上ひさしはすごい、といたく感動し、自分もこうしたノート・草稿を作りたい(おい、その目的化はどうかと)と考えたためである。

 

このようなメモが数多く収められている

 筒井の著作に戻る。「誰でもわかる」ではなく「誰にもわかる」なんだ、と変なところが気になるのだが、それはおいておいて、まずは自分の理解を進めていこう。気づきの端緒になるように。

 巻頭に挙げられていたハイデガー特有の用語。説明文は筒井の読みに準拠。

その一
その二
  • フッサール→現象学、ハイデガー→解釈学、という。

  • ハイデガーの影響は、現存在分析(レイン、ビンスワンガー、デビット・クーパー)や解釈学的文学理論(H・G・ガダマー)などに。


【解説・大澤真幸より】

  • 「存在と時間」は、未完であると言われている。ハイデガーは、1953年に正式に書くのを断念したと発表。二部構成であったはずの後半、「時間、存在の意味は時間である」というテーゼの証明について、ほとんどの執筆を諦めてしまった。

  • 前半の中心概念の「気遣い」は間違いではないが退屈。キリスト教的分析。

  • キリスト教の独創性は「メシア(キリスト)がもう来てしまった」ことである。

  • 人々は、「決定的な出来事(キリストの殉職)」の跡の立場に置かれる。そしてその立場から、自分たちの現在を見つめなければならなくなる。「出来事の後」の視点から、過去ではなく、現在を見つめることに。

  • ハイデガーの「存在と時間」がベストセラーになったのは、第一次世界対戦後の〈終末の出来事〉の後を生きている、という時代の雰囲気に合致したから。

  • なぜ人間だけが死を了解できるのか。それは、自分の経験の有限性を「無限性の欠如」として捉えることができるから。では「無限性」とは何か?


うーん。「死ぬこと」にこだわった考えなんだなあ。そんなに「死ぬこと」が怖かったのだろうか。まあ、論拠の確実性から言えば、死ほど確実なものは人間にはない、という言い方もできる。でも「死について考えている自分自身(主体)の意識」についてもっと緻密に、深く掘り下げて意識的に観察することには無頓着にも見える。このあたりが東洋哲学との違いかしら。

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