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読書ノート 柄谷行人講演「『力と交換様式』をめぐって」 文學界2022年10月号

               

 

  • 2022年7月3日東京大学大学院総合文化研究科・教養学部付属共生のための国際哲学センター(UTCP)主催「柄谷行人さんに聞く~疫病、戦争、世界共和国」を再録。(その後文春新書にまとめられました)

  • 聞き手:国分功一郎、コメンテーター:齋藤幸平、質問者:中島隆博

  • 柄谷の発言を主にまとめる。


① 最初にいっておくと交換様式とは、次のようなもの。

A 互酬 (贈与と返礼)
B 服従と保護 (略取と再分配)
C 商品交換 (貨幣と商品)
D Aの高次元での回復

② 交換様式の概念は『トランスクリティーク』『世界史の構造』と書き継がれ、今回世に問う『力と交換様式』では、交換様式と力の関係を思考する。

③ 交換様式とは、柄谷が言い出した概念。

④ マルクス主義=史的唯物論には、生産様式という考え方があり、これは生産力・生産関係を社会の経済的下部構造とし、それがイデオロギー的・政治的な活動である上部構造を規定するという考え。

⑤ しかし、上部構造は下部構造に規定されるとともに、それから相対的に自立して働くものだとされている。ウェーバーやエンゲルスもそれを認めている。

⑥ 柄谷がいう交換様式は、マルクス主義ではなく、もっぱらマルクスの『資本論』から着想を得た。『資本論』でマルクスは、貨幣や資本の問題に関して、「生産」ではなく、「交換」から考えようと試みた。

⑦ つまり、「商品と商品の交換から、資本や貨幣=物神(フェティッシュ)が成立・生まれてくる」と考えた。

⑧ このような考え方は、アダム・スミスやリカードの古典派経済学と異なるだけでなく、そもそもマルクス主義・史的唯物論の考え方とも異なる。

⑨ 通常、マルクス主義では、生産が重視される。商品の価値は、売買によってではなく、それの生産に要した労働、労働時間によって規定されるとみなされた。

⑩ マルクスも初期はそこから出発したが、かれは『経済学批判』で、生産から流通・交換の問題に立ち返った。

⑪ 『資本論』は、「資本そのものが商品となるとき(株式資本が出現する時点)、貨幣物心、資本物心という観念的な「力」が成立する過程を示すことで終了する。

⑫ マルクス主義に対する一般的な批判は、その経済決定論が、下部構造だけではなく、政治的・宗教的上部構造を考慮に入れなければならないというもの。フロイトやウェーバーによって示された。

⑬ じつは、マルクス主義者もそれに対して同調している。エンゲルスなど。

⑭ しかし、このような観点では、経済における貨幣・資本の持つ「力」についてうまく説明できない。さらに国家や宗教が持つ「力」についても説明できない。

⑮ 国家は上部構造と考えられがちだが、その力は自然力(武力)とは別のなにかであり、その力は、交換から来ている。

⑯ 最初にそう考えたのは、『リヴァイアサン』を書いたホッブスであり、そのことの意義を発見したのは『資本論』におけるマルクスであった。マルクスが考えたのは、商品交換だけであったが、その時彼は、他のタイプの交換についても示唆している。

⑰ 四つの交換様式のうち、マルクスが注目したのはもっぱら交換様式Cだが、それはホッブスが描いた国家の交換様式(服従ー保護、交換様式B)「リヴァイアサン」(旧約聖書に出てくる、海の怪獣)から参照を得た。

⑱ ちなみに、マルクスの死後、二十世紀になって、別の交換様式を見出した人がいる。人類学者マルセル・モースは、贈与=返礼という交換様式Aを見出した。

⑲ モースが考察した例でいえば、贈与された側に、ハウと呼ばれる霊がつきまとう。それが、返礼せよ、と命じる。だから、返礼せざるを得ない。そういう「力」がある、モースは、氏族社会・未開社会に、そのような互酬交換を見出した。

⑳ モースは、社会学者デュルケームのおい(甥)であり、デュルケームは社会的集合意識・観念的上部構造に注目した。それに対してモースは、贈与・返礼という交換、それがもたらす霊的な力に注目した。つまり観念的な力の源泉を、経済的下部構造(交換様式A )に見出した。その意味で、モースはそうとは知らずにマルクス的であった。

㉑氏族社会において、重要なのは個人の独立性。それは、国家が形成されたあとの村落共同体にはなく、またさらにそれが解体した後に生まれた「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)、すなわちネーションにも、ありえない。

㉒ 人類学の研究に向かった晩年のマルクスがやりたかったのは、新たな観点から共産主義について考えることだった。

㉓ 彼は未来の共産主義を、このような交換様式Aの、「高次元での回復」だと考えた。そこで重要なのは、諸個人の平等性だけでなく、個人の独立性である。

㉔ それに対して、ネーションとは、Aの低次元での回復だといえる。そしてそれは、国家や資本を助けるものとして存続する。つまり、資本=ネーション=国家とは、交換様式A・B・Cの結合体である。したがって、それを揚棄するということは、実は不可能。揚棄するには、交換様式Dが不可欠である。

㉕ このように、マルクスは晩年において、社会の歴史を事実上、交換様式から見るようになっていたのだが、その自覚がなかった。その結果、彼の死後、それは無視され、史的唯物論の下に消されてしまった。

㉖ 実は、エンゲルスにも同様のことが言える。エンゲルスの晩年の仕事は、原始キリスト教史に関するものだが、これは一般には、全く注目されなかった。それはエンゲルス自身の、彼が書いた『空想より科学』のせいであった。

㉗ マルクス主義を要約したかのような、エンゲルスの『空想より科学へ』で彼は次のように述べている。つまり「国家の力で資本を否定すれば、国家の必要はなくなり、自然に消えてしまう」。彼の念頭にあったのは、レーニン主義などではなく、いわば社会民主主義であろう。それを忠実に受け継いだのは、弟子のカウツキーであった。

㉘ しかし、一九世紀末にこのような社会主義者がヨーロッパ各国にいたにも関わらず、それらは資本主義そのものがもたらす危機(搾取と富の偏在による帝国主義の台頭からもたらせられる国家間の覇権争い)に対応できず、第一次世界大戦に飲み込まれていった。

㉙ その結果、敗戦国ロシアで二月革命が起こった。そこで、議会や労働者・農民評議会(ソヴィエト)が誕生。このままであれば、多分他国でも革命があり、「世界同時革命」がありえたかもしれない。むしろ、それがマルクス主義者主流の考えであった。

㉚ しかし、そのあとロシアでは、レーニン・トロツキーが率いた少数派のボルシェビキによる軍事クーデターが起こった。それがロシアの十月革命である。

㉛ これによって、たしかに、ロシアでは資本が抑え込まれた。しかし、国家のほうは徐々に消えるどころではなく、それどころか、かつてないほどの強力な力を持つにいたった。そのあげく、それが、マルクス主義あるいは社会的科学主義だということになってしまったのである。

㉜ もちろん、そのような「社会主義」は、1991年(平成三年)ソ連邦の崩壊とともに、決定的に終わった。

㉝ しかし、議会制民主主義を通して資本・国家を制御していけば、将来的に社会主義が可能なのではないか、という考えは残った。近年はこうした「ポスト資本主義」の可能性が唱えられている。

㉞ 柄谷個人の考えでは、それもありえない。「資本・国家・ネーション」は執拗に残る。

それらは、それぞれ、異なる力によって支えられている(「資本=C、国家=B、ネーション=A)。『世界史の構造』において、そのような「力」が、たんなる観念ではなく、交換様式からくる観念的な力であることを示し、こう述べた。資本=ネーション=国家、つまり交換様式A・B・Cを超えるのは、交換様式Dだけであると。

㉟ 『世界史の構造』は、世界各地で支持を得た。しかし、実は『世界史の構造』を読んで共感してくれた人の中に、なにか誤解があると柄谷は感じた。

㊱ それは、交換様式Dが、現在あるいは近い将来に、人の意思によって実現できるものであるかのように受け取った人たちが少なくなかったからだ。

  此本臣吾…「デジタル資本主義」と交換様式D
  オードリー・タン…交換様式Dは人間が知り且つ意図すれば実現できる

㊲ 実は柄谷自身も、2000年頃には、Dを人間が意図して実現できるものとして見ていた。Aを拡大すれば、B、Cを超えるDに転化すると展望していた。しかし、そうはいかないと気づいた。人の意思を超えて働く力がDとして出現する、というイメージに。

㊳ いっぽう、『世界史の構造』を読んだ人たちのなかには、Dを「人の意思を超えた神の働き」として見る人もいた(アメリカの神学校やドイツの大学神学科など)。

㊴ 柄谷は、Dを神学の問題に還元したくない。説明不足を感じ、2017年に交換様式Dの補足として、『交換様式論』という論文を発表する。

㊵ Dは、厳密に言えば、交換様式の一つではない。それは、「交換」を否定し、止揚するようなドライブ(衝迫)としてあるもの。そしてそれは観念的・宗教的な力として現れる。

㊶ Dはたしかに宗教的だが、しかしそれなら、A・B・Cもそれぞれ、宗教的である。宗教は、神に贈与してそのお返しを強いる「交換A」、国家も交換Bにもとづく宗教だとも言える。交換Cも、物神崇拝という宗教だといえる。

㊷ 交換様式から生じるこのような力を、それぞれがもたらす霊的な力として見るような仕事をしようと思った。それが『力と交換様式』である。

㊸ さまざまな霊的な力は、たんなる比喩ではなく、現実に働く「力」である。そしてマルクスはまず、その一つを『資本論』において示した。つまり、貨幣や資本の亡霊(物神)を、交換様式Cとともに生じた観念的な力として考察する道を切り開いた。また、彼はそのような仕事を、国家を交換様式Bから生じた海の怪獣(霊)として見出したホッブスに見倣っておこなった。それなら、同様のことが交換様式AやDについてもいえるはずだと柄谷は考えたのである。


質疑応答

【国分】ホッブスに注目することで、交換様式の図の生成の系譜学が見えたような気がした。

【柄谷】社会運動というのは、交換様式でいえばAだと思う。Aは自分の意志や考えでできる。Dは違う。

【柄谷】間抜けな人は宗教的に優れている。

【柄谷】Dはかならず来るけれども、それはこちらが作るのではなく向こうからくる。

【斎藤】マルクスで周辺化されたテーマ、アソシエーションやコモン、贈与などこそが、マルクスにとっては中心的だった可能性がある。

【斎藤】交換様式の四象限の図で、斎藤はDを「脱成長コミュニズム」としている。

【国分】柄谷は昨年の段階で「今後、戦争が起こるだろう」と予測していた。

【柄谷】交換様式D が、「向こうからくる」と言っても、何もしなくてもいいという意味ではない。大変な努力をしてもうまくいかないかもしれない、でも耐えろ、ということ。

【中島】カント的な統制的理論としてDを語ることができれば、それは単なる未来における目的のために投影されるものではなく、「過去を語り直すことによって、初めて見出すことのできる未来」として論じられるのではないか。

【柄谷】カントは「自然の隠微な計画」(『永遠平和のために』)、つまりそこに、神でも人間でもない何かの働きを見出した。Dにもそのようなところがある。



感想

  • おぼろげながら、交換様式Dは、井筒俊彦が説く「タオ(道)」に通づる。

  • 絶対一者(イブン・アラビー)と世界との交換を、重ね合わせの第一神、そして精霊が繋ぐように。

  • そして今村仁司が考えた「排除の構造」におけるメデューサ効果、排除の一対一対応がその生成のヒントになるのではないか。

  • 交換様式に霊力があるのは至極当然であり、というのもその基礎となる言語に呪術的霊力があることは様々な研究から明らかであるからである。人間の思考・言語活動にはそうした第三項の力が必ずつきまとっている。


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