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読書ノート 「象徴交換と死」 ジャン・ボードリヤール 今村仁司・塚原史訳

 今村仁司の文庫版解説より。

 「近代社会は産業社会であり、その意味での労働中心社会であり、生産性と効率を規範として運動するのであるから、人間と物の交換を近代以前の諸社会のように「象徴交換」で律していくことは原理的にありえない」「また近代の原理を批判するために近代以前の文化価値を復古的にもちだしているとは考えられない」「ボードリヤールはこんな当たり前の事実を確認しているにすぎないのだろうか」


 近代以前では象徴交換が社会形成の原理として生きていた。ボードリヤールは、象徴交換の原理を近代以前の社会に限定せずに人間存在の根本にあるもの、人間の交通様式の根源的なあり方とみなしている。

 近代のふたつの動きとして、ひとつは、生産主義社会の登場とともに象徴交換は「地下に埋め込む」ようになり、ふたつ目の動きとして、生産と労働の原理がゆらぎ始め、「シュミレーション原理」が突出してくる。そして驚くべきことに、生産の終焉の段階で、この象徴交換原理が「社会形成の原理」ではなく、「反乱の原理」として登場するのである。


 バタイユの場合、象徴交換原理は、自己の死を賭けるサクリファイス(供犠)を通じて、彼に特有の「至高性」を求めるいわば実存的な原理である。

 ボードリヤールの場合、象徴交換原理は、社会がシュミレーション社会に変貌することで生み出されていく「システムの内部にある反システム原理」である。


 象徴交換は必ず「死」の交換である。バタイユが洞察したようにそれは「象徴的な死の交換」でもある。


 ボードリヤールが言おうとしているのは、すべての経済原則と利益獲得を無視した闘争のための闘争が、ほかならぬ高度に発展した現代社会のなかでなぜ頻発するのかを説明し理解しようとしているのである。この反乱の原理は、反乱者の死=体制の死の交換を要求する。現代では象徴交換はこうした極端なケースにおいてはじめてその真の姿を表してくる。


 ソシュールのアナグラム論とモースの交換=贈与論。両者とも言語学・経済減速への破壊・敵対・解体である。


 労働が小出しの死であるなら、生産主義体制もひそかに死を抱えている。


 現代のシステムがシュミレーション社会になり、シュミラクルの不確定な互換性のなかにすべてを巻き込み、同語反復的論理によってハイパーリアルな現実をつくりだしてしまったが、この現実にたいして伝統的な思想と学問はなすすべをもたない。ありうべき思想の戦略は、この同語反復を徹底させること、つまりシステムの論理を逆手に取ってシステム批判の武器にすえることである。人間もも物も記号というより、むしろシュミラクルになり、しかもそれらが不確定で決定不可能な無制限の互換メカニズムにからめとられているとき、弁証法はかつてのような批判的機能を消失し、したがって革命主義の構想も喪失してしまう。すべてのユートピアはこのシュミレーション社会のなかで、ある意味では実現してしまった。それと同時にユートピアは暗黒の逆ユートピアにすらなる。生産の終焉とともに、革命も弁証法もユートピアも終焉した。人間がまだ生きている徴を実感し、生命の高揚を期待したいのであれば、それは「象徴交換と死」を引き受ける以外にはない。なによりもまず、思想において死の象徴交換を実践しなくてはならない。

 

 ジョルジュ・ソレル『暴力論』

 ソレルは「神話」をギリシア語のミュトスの意味で使っている。ミュトスとしての暴力は、崇高をめざす暴力であり、その崇高への情熱のなかで、闘争するものたちは自立した人間として連帯することができる。崇高をめざすミュトス的暴力は、なによりも自己犠牲の暴力であり、またそうであるからこそ敵の死を要求できる。そうだとすれば、これはまさにボードリヤールのいう象徴交換の暴力である。


 アレクサンドル・コジューヴ「歴史の終焉」論

実践は賢者の実践であり、それは「普遍的等質国家」(相互承認が可能な政治的共同体)の建設に向けられる。


 ボードリヤールの「歴史の終焉論」は、すべてをシュミラクルにしてしまうシュミレーション・システムの実現から構想された。そして歴史が終わった後に永遠に持続するかにみえる同語反復社会のなかで、アンチ・ヒューマニズムのニヒリズムの煉獄に耐えて、しかもなお人間の尊厳を取り戻そうとするならば、そのための実践は、ほとんど不可能に見える企て、すなわち永続的な崇高への跳躍になる。それが象徴交換による反抗の論理である。こうして本書は、コジューヴの「歴史の終焉」論とならぶもう一つの「歴史の終焉」論なのである。

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