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読書ノート 「〈世界史〉の哲学2 中世編」 大沢真幸

 トマス・アクィナスは、神の存在を証明しようとした。神は経験的な世界から絶対的に断絶(超越)していなくてはならない。そこで「存在の類比」というアイディアを編み出した。それは、「神の存在」は「リンゴの存在」と同じ意味ではないが、後者からの類推、後者のあり方をもとにした隠喩によって語ることができる、とする考え方。

 しかし、「存在の類比」はやはり曖昧なアイディアであると言わざるをえない。
 この曖昧さに断固として拒否を示したのが、トマスより半世紀弱ほど後に生まれた、中世哲学のもう一つの頂点である、ドゥンス・スコトゥスである。「神は、リンゴと同じ意味で存在しているわけではないが、似たような意味で存在している」という主張は、神とリンゴの間の違いを強調しているように見えて、実際には、むしろ、両者の差が程度の問題に過ぎないことを示してしまっている。スコトゥスは、むしろ、ふたつの「存在」は、概念として捉えた時まったく一義的(同じ意味)であるとする。二つの「存在」の同義性を、事象のレベルではなく、概念のレベルに見出すことによって、経験的な世界と神との間の圧倒的な差異を確保しつつ、両者に共通して「存在」について語ることができる、というのがスコトゥスの「存在の一義性」というアイディアである。

 これによって、トマスの議論にあった曖昧性は除去される。が、それには、ある反作用が伴う。「神が存在する」という言明は、「このリンゴが存在する」と陳述するときとまったく同じ意味で「存在」という語を使っている。そうであるとすれば、神は、このリンゴ、あのリンゴのような被造物と同様に、単一的な個体として存在している、ということになる。トマスにおいては、神は普遍的な存在であった。スコトゥスにおいては、逆に、特異的・単一的な個体である。もっとも、それは、有限な被造物とは違い、無限の─無限定な─個体であるとはされている。しかし、「存在」の概念としての一義性を確保したことによって、神が普遍性を放棄して、個体へと収縮したことは確かである。それどころか、個別性の度合い─これをスコトゥスは「内的固有の様態」と呼ぶ─に関して、神は被造物よりも完全だとされるのだ。
(第二章「信仰の内に孕まれる懐疑」)

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