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少女漫画の現在地〜三宅香帆氏の記事から考える〜

 書評家の三宅香帆が書いた少女漫画の歴史(昭和から平成にかけての変遷)が話題になっている。

 三宅氏は、「平成の女の子たちは、「弱い男の子」に恋をした」というように、少女漫画に描かれるヒーローが「弱く」なっていると考察している。昭和の少女漫画(例えば『エースをねらえ』)は、男性が「白馬の王子様」として描かれている一方で、平成の少女漫画(『セーラームーン』がその嚆矢だとしている)では、「ヒーローが、「強い男」でなく「弱い少年」になってゆく」らしい。そして、最終的に以下のようにまとめている。

1990年代、つまり平成という時代の幕開けから始まる、アダルトチルドレンという言葉や精神分析等の思想の流行を鑑みても、「表面的な社会的ステータスなどの幸福だけでなく、内面に目を向けて幸福になりたい」という思想が広まっていた。その時、少女漫画ははじめて「男の子にも女の子の内面を見てほしい」「内面を深く理解しあった上で恋愛関係になりたい」「だけどなかなかそれは達成されないから、だったら自分が男の子の内面を見て彼の内面からすくうことのできるヒロインになりたい」という欲望を発見したのではないだろうか。

 非常に刺激な考察である。90年代は内面の時代であり、男性向けコンテンツは『エヴァンゲリオン』(とそれ以降の「セカイ系」作品)のように「引きこもり/心理主義」的(宇野常寛『ゼロ年代の想像力』に詳しい)になっており、「女の子を救う」よりも「自分を救ってくれ」という方向へ舵を切ったように見える。一方、(女性向けコンテンツである)少女漫画では、むしろ「男の子の内面を救う」という方向へ行っていたことになる。男の子は弱くなり、女の子は強くなったように見える。

 しかし、三宅氏の記事には『セーラームーン』解釈を巡って、「(記事内で「弱いヒーロー」とされた)タキシード仮面は弱くない」、「『セーラームーン』の原作とアニメをちゃんと読んだのか?」等の反論が寄せられている(下に引用した、記事の宣伝のツイートに対するリプライや引用RTが参考になる)

 なぜそのようなことが起こるのか。おそらく、『セーラームーン』はメディアミックスされた作品であるためである。原作とアニメで雰囲気が異なり、論じるときにはしばしば問題となる。

 また、そもそもタキシード仮面の強さはブレがあり、一概に言えないという問題がある。例えば、アニメ版に限ってであるが、無印の14話では敵の妖魔と互角な勝負を繰り広げるが、(ここで申し訳ないが話が特定できなかった)他の話では颯爽と登場して敵と戦うものの背後からの攻撃でダウンするという描写もあった。そのため、タキシード仮面で「ヒーローが弱くなった」かどうかは、どうとでも言えてしまう。

 『セーラームーン』のようなビッグタイトルの考察は突っ込まれる部分があるが、『ちゃお』系の漫画から『こどものおもちゃ』を引っ張ってきて、トラウマを抱えた「弱い」ヒーローをヒロインが救う(そして自分自身のトラウマにも向き合うようになっていく)と考察した点は興味深い。『ちゃお』や『りぼん』系の少女漫画は、意外と歴史から零れ落ちる印象があるので(2000年代以降に男性向けコンテンツと女性向けコンテンツの垣根が薄れたことも関係しているのだろうか。2000年代になると『プリキュア』、2010年代には『アイカツ』『プリティーリズム』が登場し、雑誌に連載されている少女漫画というよりは、ゲームやアニメを主体としたメディアミックスが行われるようになったことで、「少女漫画史」が分かりにくくなった可能性がある。)、位置付けを行ったことは今後の「少女漫画史」記述において大きな参考資料となるはずである。

 むろん、三宅氏の歴史観では、必ずしも全ての少女漫画の位置付けを上手く行えるわけではない。2000年代には『NANA』や『君に届け』などのヒット作があった。それらの少女漫画に登場するヒーローが「弱い」とは特に感じられない。かっこいいバンドマンだったり、爽やかで気の利くイケメンだったりした。三宅氏が例に挙げている平成の少女漫画が、『セーラームーン』は『なかよし』、『フルーツバスケット』は『花とゆめ』、『こどものおもちゃ』は『ちゃお』であり、『Cookie』連載の『NANA』や『別冊マーガレット』連載の『君に届け』で反論すると、「少女漫画の文脈が違うので不適当」と言われるかもしれない。しかし、『ちゃお』と『なかよし』は対象年齢が『なかよし』の方が上であろうし、『花とゆめ』はさらに対象年齢が上、という話も聞く。つまり、三宅氏の史観での「少女漫画史」は、いささか操作が入っているともいえるのではないか。

 むろん、私のこのような「ツッコミ」は、少女漫画を語る動きを阻害しかねないので、悩ましい。しかし、少女漫画が誰に向けて描かれているのか、そもそも少女漫画とは何か、という問題を考える上で、どうしても気になってしまうのである。最近は、『ミステリと言う勿れ』が流行したように、少女漫画とレディース漫画の垣根が無いように見える(Amazonの「少女漫画」と「レディース」のカテゴリのランキングがほぼ同じ)ので、疑問が膨らむばかりだ。さらに、『スキップとローファー』、『青野くんに触りたいから死にたい』のような一見して少女漫画に見えるものが『アフタヌーン』(「サブカル漫画」と言われるものが多く載っている漫画雑誌)に連載されているという事実からも、「少女漫画とは一体何なの?」という印象を抱かされてしまう。三宅氏は今後も少女漫画について語るだろうが、その時に掲載誌やその対象年齢についてどのように整理するのかが気になる。

 ここからは私見である。今後の「少女漫画史」、「弱い」ヒーローを考える上では、『Sho-Comi』連載作品が参考になると思う。特に2010年代、2020年代に連載された、くまがい杏子『あやかし緋扇』、『チョコレート・ヴァンパイア』に注目したい。いずれも、ヒロインが「強く」、ヒーローが「弱い」ように見えつつ、ヒーローが「強く」、ヒロインが「弱い」こともある描写になっている。『あやかし緋扇』では、ヒーローは普段は気弱ないじめられっ子気質で、ヒロインは喧嘩が強い。しかし、霊と戦うときになると、ヒーローは除霊師であり、かっこよくなる。そして、ヒロインも守られっぱなしではなく、一緒に戦う。『チョコレート・ヴァンパイア』では、人間とヴァンパイアが共存する学園で、ヒロインは暴走したヴァンパイアを取り締まる部隊のエースであり、ヒーローは優男なショタである。しかし、ヒーローは実は強いヴァンパイアで、ヒロインがピンチになると駆けつけてくれる。そして、敵が手強いときは、ヒロインも死力を尽くして戦う。ヒーローとヒロインの強さと弱さが絶えず入れ替わる。ヒーローもヒロインも、救いもするし救われもする(現在『Sho-Comi』で連載中の、佐野愛莉『仁義なき婿取り』も似たような構造を持つ)。そのような世界が、2010年代以降の少女漫画の潮流の一つになるかもしれない。









 

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