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#0067【後漢の光武帝(中国、1世紀前半)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

今週は中国歴代王朝の創始者を特集したいと思います。まずは日本の奴国に金印(漢委奴国王)を渡したことでも有名な後漢の光武帝を紹介します。

後漢の光武帝(本名:劉秀、生没:BC6年~AD57年、在位:25年~57年)が生きた時代は、前漢王朝を王莽(おうもう)が滅ぼし、政治が大混乱していました。
さらに飢饉の発生や大規模な農民反乱もあり、各地で反王莽の動きが活発化します。

前漢の皇室に連なる家系でもある光武帝たちの一族も、反王莽の兵を挙げることにします。この時、光武帝が参加している姿を見て多くの人たちが付き従いました。
理由は光武帝が無理をしない人柄であったことから、人々が「あの人も参加するなら」と思ったからと言われています。

光武帝は凡庸な人物と思われていましたが、実際に戦争をやらせてみると寡兵(少ない人数)で敵の大軍を討ち果たすなど、場面によっては果敢な攻めにも転じる姿を見せます。

光武帝は次男坊で、彼以上に人望厚い兄がいました。光武帝の兄は非常に豪傑で義侠心にも富む人柄でしたが、光武帝一派に反発している派閥の罠にかかって、兄は無実の罪を着せられて殺害されてしまいました。光武帝たちは反王莽ということで集まっただけで内部抗争が常におきている勢力だったのです。

兄に加えて、大軍を倒して名声が高まっていた弟の光武帝も罠にかけようと反対派閥は考えます。
それに反発心を持つ光武帝一派は、光武帝のもとに馳せ参じようとしますが、光武帝は彼らに一切会わずに屋敷に閉じこもり、自ら兄の罪に服します。

こうなると反対派閥の人々も功績のある光武帝を罰することが出来ません。代わりに光武帝は、僅かな兵力で北方の制圧を命じられました。反対派閥は失敗すると思って送り出したのです。

しかし、光武帝は苦労の結果、ここでも制圧に成功します。慌てた反対派閥たちが戻ってくるように説得するも光武帝は遂に自立・独立の道を選び、皇帝となって天下統一へと進みます。

最終的に彼は兄の敵も討って天下を統一し、後漢王朝を成立します。なるべく無駄な血を流さない方針で統一を進めました。

後年、皇太子である自分の息子から「戦争のやり方」を聞かれた際に「お前はそのようなことを知らないでいい!」と叱責し、領域拡大よりも内乱で荒れた中国の内政・民心安定に力を注ぎました。

私の彼の好きなエピソードを一つ紹介します。

彼が北方の制圧に成功したときです。とても苦労して光武帝自身も何度も死を覚悟するシーンがあるほど劣勢でした。最後に敵の本拠地に乗り込みます。機密文書が格納されている場所につくとチラホラと見たことのある筆跡があるではないですか。なんと光武帝の部下たちは裏切ろうと敵に手紙を送っていたのです。光武帝はその文書の束を皆の前で火にくべて燃やしながら不問に付すことを告げます。

「私ですら、何度も負けると思ったものだ。部下たちはもっと不安だっただろう。」

とても私に真似できるかどうかは分かりませんが、これから200年後に同じことを三国志の曹操が、ライバルだった袁紹の本拠地を落とした際に行いました。

歴史からの学びは古来から繰り返されています。

以上、本日の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2
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