#0008【豊臣秀吉(日本、16世紀後半)】

こんばんは! 1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

今回は豊臣秀吉です。

秀吉も信長と同じく尾張(現愛知県西部)に生まれました。貧農の出身でしたが、持前の才覚を活かして信長の下でトントン拍子に出世します。

信長が本能寺の変で非業の死を遂げたのち、その後継者争いにおいて、秀吉の主張が通ります。

信長の長男(信忠)も本能寺の変で死亡しており、次男・三男の争いだと思われていました。特に三男は、本能寺の変を起こした明智光秀を秀吉と一緒に討ち滅ぼしており、後継者の地位に近いと考えられていました。

しかし、秀吉は織田家の重臣会議で、信忠の息子である幼児の三法師が後継者に相応しいと主張します。天下の大半は織田家のものとなっていたものの、まだ敵対勢力が残っている中、幼児を後継者とすることへ異論が唱えられますが、光秀討伐の最大の功労者である秀吉の意見が尊重されました。

もちろん、「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトドキス」の秀吉です。自分の主張を通すため、会議前にしっかりと根回しを済ませていました。

その後、自分の反対勢力であった三男や織田家重臣たちを滅ぼして、三法師を手中に収めた秀吉は、天下を織田家から奪います。織田家の権威を超えるため、天皇の下で関白(天皇代行職)になりました。成人後の三法師、織田秀信には岐阜一帯に僅か13万石しか与えませんでした。

そして、日本は豊臣秀吉によって1590年に統一されます。

秀吉は、国内政策としては惣無事令(戦争禁止令)や刀狩り(武士以外の武装解除)、太閤検地(国勢調査)を実施しつつ、対外戦争(朝鮮出兵で明・朝鮮と朝鮮半島で戦争)を行いました。

貧農の子から関白という位人臣を極めた戦国一の幸運児ですが、そんな彼にも恵まれなかったものがあります。自分の血を分けた「子ども」です。

天下人となった秀吉と正妻お禰との間には子どもがおらず、側室淀殿(信長の姪)との間に生まれた鶴松も僅か2歳で1591年に亡くなります。

秀吉は親戚から養子をもらって自分の後継者、豊臣秀次にしました。1591年の年末には秀次が関白となり、秀吉は太閤になります。

ちなみに太閤とは、元関白という意味です。歴史上、大勢の太閤がいますが、秀吉があまりにも有名なので、一般的に太閤と云えば秀吉を指すようになりました。また、関白の妻のことを北政所(きたのまんどころ)と言いますが、こちらも一般的には秀吉の妻のお禰を指します。

秀次に跡を譲ったものの、なんと淀殿が再び秀吉の実子(秀頼)を生みます。1593年、秀吉57歳の時のことでした。

秀吉は、苦労して手に入れた天下を自分の実子に譲りたいという思いに駆られます。そこで1595年に関白豊臣秀次を謀反の罪で処刑します。さらに彼の妻・子どもを含めて30名超を処刑しました。将来、秀頼に反逆する芽を事前に摘み取る処置でしたが、今では秀次謀反は冤罪だったと考えられています。

1598年、対外戦争が行き詰まった中、秀吉は病にかかります。

死期を悟った秀吉は、大名たちから秀頼への忠誠を誓う文書を何度も提出させます。また、徳川家康の手を握っては「秀頼を宜しく頼む」と懇願しました。

天下を得て、巨万の富と強大な権力を握った専制君主も病に勝てず、同年に幼い秀頼を残してこの世を去りました。

「露とおち、露と消えにし、我が身かな 浪花(なにわ)のことは 夢のまた夢」

秀吉の辞世の句です。

以上、本日の歴史小話でした!

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