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【中国史記から】目的を達するためには「まず隗より始めよ」

戦国七雄の一つを占めていた燕は隣国斉によって蹂躙され、国王が討ち死にするという事態に陥りました。(この話をまだ読んでいない方はコチラから)

国は混乱の中、王太子が即位をします。彼は何とか国を立て直そうと心を砕きます。

のちに燕の昭王と呼ばれることになるこの王は、平身低頭し、多くの財物を用いて、人材を招いていきます。

ある日、昭王は郭隗というものに、こう語りかけます。

「我が国の内乱に乗じて攻め入ってきた斉に一矢報いたい。復讐を果たしたいが、無念なことに燕は小国で力に乏しい。だが、賢者を迎え入れて国運を共にし、もって父であった先王の恥を雪ぐことができたならば、、、。これが私の念願である。先生にはどうか適任者を見つけてきて欲しい。私も身をもってその方に従おうと思う。」

郭隗は「国王がどうしても賢者を招きたいと思し召しであれば、まず隗(郭隗自身)よりはじめてください。そうすれば、私への待遇を聞いた私以上の賢者たちが千里の道も厭わずに国王の下に馳せ参じるでしょう。」と言いました。

昭王は、郭隗のために豪華な家を建てて、郭隗に師事します。そうすると、各国から名の知れた賢者たちが次々に燕へとやってきました。その中の一人に名将と名高い楽毅もいました。

これが「隗より始めよ」という慣用句となります。①「大事業にあたっては手短なところが実施せよ」あるいは転じて②「まずは自分から率先して始める」という意味の表現として使われています。もともとの故事としては、①の意味ですね。

さて、その後も昭王は謙虚な姿勢を維持します。その心配りは賢者に対してのみならず人民に対しても施され、死者を弔問し、孤児を慰問し、人民と労苦を分かち合います。

結果、国は上下ともに一つに纏まり二十数年の昭王の治世を経て、蓄えた国力を背景に楽毅を大将軍に任じて斉への侵攻を命じるに至ったのです。

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