見出し画像

#0090【マゼラン(スペイン、16世紀前半)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週の大航海時代特集の最後は、マゼランで締め括ります。

マゼランは1480年にポルトガルで誕生します。青年期には1492年コロンブスのアメリカ到達や1499年ヴァスコ・ダ・ガマのアフリカ西岸南下によるインド到達など、大航海時代初期の偉業を目の当たりにしながら成長します。

1505年、25歳のときにインド洋の覇権確立のために派遣されたポルトガル艦隊に乗り込みました。これが初航海となります。

その後、東アフリカを中心に勤務をし、低い身分の出身ながらも船長の地位にまで出世をします。航海士、戦士としての能力を評価されてのことだと思われます。

1513年に8年間の勤務を終えたマゼランは、ポルトガルに帰国します。この間、ポルトガルは安定したインド航路の構築に成功します。その結果、インド香料貿易によって莫大な富を得ます。

それまでヨーロッパにおける香料は地中海ルートを押さえていたヴェネツィアの独壇場でしたが、イスラム商人を介さないポルトガルの方が安価に供給することができたため、香料貿易の独占に成功したからです。

ポルトガルは我が世の春を迎えますが、1515年にマゼランはポルトガルを去ってスペインへと向かいます。残念ながらその理由について正確なところは伝わっていません。

低い出自であったことから、出世の希望が通らず、インド航路を確立できていないスペインに活路を求めたのではないかと個人的には推察しています。

スペインは何度も艦隊を派遣して西廻り航路の確立を目指しますが、失敗が続いていました。そこにスペイン宮廷の貴族たちの推薦を受けたマゼランが新しい艦隊指揮官に任命されることになりました。1519年のことです。

マゼランは2年分の食糧を積み込んで出航します。途中、艦隊の中で反乱が起きそうになるなど危険なこともありましたが、南米大陸を南下し太平洋へと繋がるマゼラン海峡を発見しました。1520年10月のことでした。

この海峡の名前はマゼランの名前が由来となっており、太平洋(パシフィック・オーシャン)もマゼランによる名付けと伝わっています。

手違いもあり、太平洋に入った時点での食糧は、残り3か月分となっていました。未知の航路へと飛び込んだマゼランたちは、海面は穏やかだったものの食糧を補給できるような島に巡り合えずに、遂に食糧が底をつきます。船の帆桁に使用されていた牛皮やオカクズも食糧とし、ネズミが見つかれば高値で取引される状況となります。

餓死寸前のマゼラン艦隊がグアムに辿りついたのが、1521年3月のことでした。

その後フィリピン諸島へと移動しますが、ここでマゼランの奴隷であったマレー人がマレー語で呼びかけたところ、相手がマレー語で返答しました。スペインの東方から連れてこられたマレー人がスペインから西へ西へと進んでいった結果、再びマレー語圏へと踏み入れました。マゼランが、地球は球体であると確信した瞬間でした。

この地に腰を落ち着けて情報収集にマゼランは励みます。当初は現地人と良好な関係でしたが、キリスト教の布教活動を始めるとマゼランたちへの反発が強まります。1521年4月には反発を力でねじ伏せようとしますが、逆にここでマゼランは殺されてしまいました。

艦隊幹部たちにも多数被害が出ましたが、生き残りの船員たちはフィリピン諸島を脱出し、航海を続けました。そして1522年9月にスペインへと帰国することができました。出港時は270人いた乗組員のうち、世界周航をして無事に帰国できたのは僅か18人でした。

マゼランは途中で戦死してしまいましたが、初めての世界一周の名誉は「マゼランの艦隊」へと与えられました。

宇宙探査機にもマゼランの名が冠せられるなど、その偉業は今も讃えられ続けています。

以上、今週の歴史小話でした!

========================
発行人:李東潤(りとんゆん)
連絡先:history.on.demand.seminar@gmail.com     twitter: @1minute_history
主要参考文献等リスト:
https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2
※本メルマガの著作権は李東潤に属しますが、転送・シェア等はご自由に展開頂いて構いません。
※配信登録希望者は、以下URLをご利用ください。 http://mail.os7.biz/b/QTHU
========================

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?