#0069【明の洪武帝(中国、14世紀後半)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

中国歴代王朝の創始者特集の最後は明の洪武帝(本名:朱元璋、生没:1328年~1398年、在位:1368年~1398年)です。

彼は最貧農の子から中国統一王朝の皇帝となりました。洪武帝には三つの顔があったと後世の歴史家から評されています。
曰く
「洪武帝は一人で、聖賢・豪傑・盗賊の性格を兼ね備えていた。」

彼は非常に英明な面がありました。何よりも戦争に強かった。
中国は長江を挟んで北と南に大別されますが、北部から南部を攻めて統一するのが、過去の中国史における基本スタイルでした。その中で洪武帝は唯一、南部から北部に攻めあがって統一王朝を築いた皇帝となります。
洪武帝が「豪傑」と評された一面です。

農業生産力と交易の発展によって集中した富を使って大軍団を編成し南京から北京へと攻めあがりました。その際に軍隊による略奪・暴行の一切を禁じます。
彼が「聖賢」と評された一面です。

一方、中国統一後は自身の権力集中を企図し、親友すらも信じられなくなり優秀な人間を見ては自分に歯向かうのではないかと猜疑心にかられていきます。
部下が謀反を企んでいたとして、二度に亘って大規模な粛清を行い、多くの無実と思われる人々を処刑しました。謀反の罪は九族(遠い親戚)にまで及ぶため、5万人が殺されたと記録されています。また思想弾圧も行い、知識層の多くが処罰を受けていきます。
洪武帝のこういった残忍な一面が「盗賊」と呼ばれることに繋がります。

この一連の粛清の結果、明の時代に皇帝権力は極大化して次の清の時代に引き継がれました。
古代では「座」といってテーブルに座って皇帝と家臣が話していました。次の段階になると「站(たん)」といって臣下は立ったまま話すことになり、明に至って「跪(き)」となり、ひざまずいて話をすることになりました。

ここまで皇帝権力の強化に洪武帝を駆り立てたものは何だったのでしょうか。

それは彼の跡継ぎであった息子が若くして亡くなり、その息子すなわち洪武帝の孫が幼かったのです。統一直後でまだ混乱が残る中国を愛する幼い孫が統治できるのか、その不安が洪武帝をして権力強化、有力者排除へと没頭させてしまいます。

この洪武帝と孫の関係は、豊臣秀吉・秀頼の関係と似ています。秀吉が粛清したのは、養子にして一度は跡継ぎとした豊臣秀次の周辺だけで犠牲者の数も限られていますが、秀吉も最貧農から最高権力者となった点も含めて非常に似ているように感じます。

洪武帝も幼い孫の将来を不安に思いながら死にました。

彼の死後、孫が二代目皇帝として即位しますが、その地位は洪武帝の四男、二代目から見たら叔父である永楽帝に奪われてしまいました。永楽帝に攻め込まれた際に本来であれば二代目を支えるべき優秀な人材層が、洪武帝によって既に粛清されてしまっていたことも二代目の孫が滅んでしまった原因のひとつだったことは、歴史の皮肉と言えます。

以上、今週の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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