#0079【漢の呂后(中国、BC2世紀前半)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

今週は世界の女性権力者特集です。
まずは中国史上最初に絶対権力を握った漢の呂后(りょこう)を紹介します。

彼女は秦の始皇帝の後の争乱の時代を経て、天下を取った漢の高祖(本名:劉邦りゅうほう)の正妻でした。

高祖は若い頃は無頼の徒であり、畑仕事もせずに遊び呆けていました。その割に人徳があり、彼が酒屋に来ると人々が集まってきて大いに繁盛したといいます。高祖はその集客力を買われ、いつもタダメシ・タダ酒にありついてました。

ある日、地元の富豪である呂氏が盛大な宴会を開いていました。集まってきているのは地元の政界などの有力者であり、宴会にはご祝儀を持っていくことが習わしでした。

高祖はこの宴会に参加することにしました。周囲の人間は金もないのにどうするかと思いきや、受付でサラサラと多額の祝儀額を書くではありませんか。もちろん、そんな大金を高祖は持ち合わせていません。空証文・空手形で大宴会の特上席で美味しい料理とお酒に舌鼓を打ちました。

その様子を見ていた呂氏は、高祖の下を訪れます。呂氏から「私は人相を見ることを得意としています。貴公の相貌は英雄の相である。ついては私の娘を嫁に差し上げたい。」と言われます。

高祖は驚きながらも了承し、ここに高祖と呂后は夫婦となりました。呂后は高祖と慎ましい生活を送り、一男一女に恵まれます。旅の人相見に家族4人全員が高貴な人相をしているとも言われました。

平穏な日々を過ごしていましたが、秦の始皇帝の末期ともなると圧政は厳しくなり民の不満は増大化していきます。始皇帝死後に遂に民衆蜂起がおこりました。

時流に遅れてはならないと、高祖の地元の有力者たちも立ち上がろうとし、その際に旗頭として人望が厚い高祖が担がれました。

その後、高祖は苦労をしながらも秦が崩壊した後の中国を再統一しました。この過程では呂后も、敵対勢力の人質になるなど、大変な苦労をします。呂后が人質になっている間、高祖はちゃっかり戚夫人という愛人と宜しくやっていました。

呂后の一族は天下統一の過程で功績があったこともあり、呂后の正妻の座は揺るぎませんでしたが、高祖は若い戚夫人との間に生まれた子どもを後継ぎにしたいと画策します。

呂后は、そうはさせじと政権幹部や在野の賢人を自分の実子のもとに集めて、自分の息子の皇太子の地位を死守しました。

高祖が亡くなった後に、呂后は宮廷から脱出しようとした戚夫人を捕縛し残虐な方法で殺害しました。呂后の息子は、恵帝として皇帝に即位していましたが、母の行動に衝撃を受けて、心労のあまり若死にしてしまいます。

恵帝死後も呂后は自分の権力を保持し続けました。残虐な面が強調されていますが、彼女の治世の間に国はよく治まり、聡明な女性であったことは間違いありません。

中国の歴史書『史記』では、高祖本紀の後ろに呂后本紀を立てています。本紀とは、その時代の中心人物の伝記を意味しています。通常ですと、皇帝・帝王の伝記です。

史記の作者である司馬遷(しばせん)は、恵帝について本紀を立てていません。高祖の死後、政治の実権を握っていたのは呂后でした。皇帝に即位していたかどうかという形式にとらわれない姿勢で歴史の叙述をしています。

司馬遷は呂后本紀を以下の文章で締め括っています。
「呂后は女性の身をもって政権を握り(中略)天下は安泰であった。」
「罪人の出ることも少なく、庶民は農業に勤め、衣食はいよいよ豊かになっていった。」
(司馬遷著/小竹文夫、小竹武夫訳『史記1本紀』筑摩書房、1995年)

以上、本日の歴史小話でした!

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