#0068【北宋の太祖(中国、10世紀後半)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

中国歴代王朝の創始者特集ですが、今日は北宋の太祖(本名:趙匡胤(ちょうきょういん)生没:927年~976年、在位:960年~976年)です。
彼は代々軍人の家系に生まれます。

父も将軍でそれなりの地位にありました。若様でもあった太祖は諸国漫遊の旅を許され、中国各地で色々なヒト・モノ・カネ・そして情報に触れていきます。

当時の中国は超大国であった唐が滅び、中央部は政治の混乱で王朝が次々と変わっていき、周辺部はそれぞれの地域が独立していた「五代十国時代」という混乱の世の中でした。
中央部の王朝は、
「後梁→後唐→後晋→後漢(こうかん)→後周」
と移り変わりました。

太祖は後周に仕えます。部下の兵士から愛され、前線で活躍する将軍として早くから後周の皇帝に気に入られ、後周の天下統一事業において大きな功績を積み上げていきます。

しかし、その統一事業の途上で後周の皇帝が若くして亡くなってしまいました。後に遺された息子は幼く、とても戦乱の世の中を治められそうにもありませんでした。

そこで兵士たちは太祖を無理やり即位させようとします。ここに至って、彼も決意をし軍隊を率いて首都を訪れて皇帝へと即位しました。国名を「宋」とします。歴史上は北宋と呼ばれ、ここに「北宋の太祖」が誕生しました。

太祖は自分を取り立ててくれた後周の皇帝の遺児を大切に育て、その一族は北宋の時代を通じて名門として待遇されていました。

前王朝の一族を大切にしたのは世界史全般に視野を広げても、とても稀有な事例です。
日本史では、豊臣家を滅ぼした徳川幕府の例を待たずとも前代の権力者の家系は次代の権力者に滅ぼされてしまうことが大半でした。これは前代の権力者の家系を残したままにすると自己に対する反対勢力の「神輿」になる恐れがあったからです。

根っからの軍人であった北宋の太祖は、統一事業を引き続き主導して進めていきます。領域的な拡張は九割方彼の手で成し遂げますが、行政機構の整理などの統一王朝としての制度設計は彼の手には余りました。

そこを補ったのが二代目皇帝となる弟の太宗と、趙普(ちょうふ)の二人でした。

特に趙普は名宰相として中国の歴史に名を残しています。彼の上司に対する姿勢は参考になるものがあります。

ひとつエピソードを紹介します。

太祖はいつも趙普を頼りにしており、趙普が宮廷を退いて帰宅したあとも趙普の自宅を訪れて相談することがありました。そのため、趙普は帰宅してからも衣服を改めず、深夜に至ってようやく寝巻に着替えて眠りにつくという生活をしていました。

ある日は猛吹雪であり、今日は流石に来ないだろうと思って早々に寝巻に着替えていたら門を叩く音がします。表に出てみると、雪にまみれて立っている太祖がいるではないですか。
慌てて趙普は暖炉の前に太祖を座らせ、夫婦で太祖と食事を共にします。太祖はどうしてもその日の間に趙普に相談したいことがあったのです。

趙普は食後に太祖に的確なアドバイスを行い、安心した太祖は宮殿に戻って安らかに眠ることができました。

趙普のように名宰相と言われる人間であっても時に油断が起きてしまいます。「常在戦場」の気持ちを保つことは難しいことをよく表しています。もちろん、これはちょっとした油断であり、この意外な来訪時においても的確なアドバイスをしたということに変わりはありません。

以上、本日の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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