#0046【康熙帝(中国、17C後半-18C前半)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

今週は中国の清朝から康熙帝・雍正帝・乾隆帝を取り上げます。

今日は康熙帝(こうきてい)です。

清の国は、満州(現中国東北三省)で成立した北方遊牧民の王朝でしたが、康熙帝の父である順治帝(じゅんちてい)の時代に中国へと進出します。

1661年に順治帝が若くして亡くなったあと、康熙帝は8歳で即位しました。当初は長老たちによる政治運営でしたが、16歳の時に長老たちを実力で排除し、その後は康熙帝が自ら政治に携わります。

康熙帝が政治の実権を握ったとき、清は中国大陸の大半を支配していました。しかし、南部には清の傘下ではあるものの独立国のようになっている地域があり、康熙帝率いる中央政府の命令が行き届きません。彼の最初の課題は、この半独立国を直轄地に組み入れることでした。

康熙帝の考えを察知した半独立国の主である呉三桂(ごさんけい)たちは、直轄地に組み入れられてしまう前に先手を打って1673年に清に対して反乱を起こしました。

「三藩の乱」の勃発です。

当初は北方遊牧民の王朝である清に対する反感もあり、漢民族出身の呉三桂側が優勢でした。

康熙帝は全土に張り巡らせた情報網を駆使して各地から寄せられる戦況報告書に自ら目を通します。適切に情勢判断を下し、北京の中央から全局を見通して指示を与えます。この結果、経済の中心地である江南の地(長江中流・下流地域)を死守することに成功し、攻勢に転じます。

徐々に追い詰められた呉三桂は失意のうちに病死し、1681年に三藩の乱は鎮圧されます。さらに1683年には清に抵抗していた台湾も降伏させました。

康熙帝は、中華世界の皇帝と北方遊牧民の君主としての両面を持ちます。

中華世界の皇帝としては、若い頃から学問に励み、過労から痰に血が混じろうとも日課の読書をやめることがありませんでした。

北方遊牧民の君主としては、夏場に草原地帯でモンゴル風のテント生活を過ごし、狩場では率先して弓を操って虎や熊を仕留める姿をみせます。

また、現代の漢和辞典の類型に大きな影響を与えた「康熙字典」などの編纂を命じたり、イエズス会の宣教師アダム・シャールなどを優遇し西洋の学問を吸収する姿勢をみせたりもします。

これは彼自身の向学心もあったと思いますが、被征服民である漢民族の反感を抑えるために、誰に対しても弱みをみせないための姿勢であったと思います。

少し長くなりますが、最後に康熙帝の政治に対する姿勢について彼自身の言葉を引用してご紹介します。

「今日処理しなければ、明日はそれだけ多くのことを処理することになる。明日を安閑と過ごせば、後日に持ち越される。国政はきわめて重く、一日として引き延ばせない。だから私は、国政に臨んで文章に一字でも誤りを発見すれば必ず修正し、いささかもゆるがせにしなかった。」

恐ろしいまでの覚悟であり、ストイックさです。康熙帝はこの姿勢を生涯崩さず、1722年に死去するまでの61年に及ぶ治世を名君として終始しました。

このトップとしての姿勢は簡単に真似できるものではありませんが、心に留めておきたいものです。

以上、本日の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)

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https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2

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