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#0080【テオドラ(ビザンツ、6世紀)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

女性権力者特集、本日はローマ帝国が東西分裂後に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の最大領域を達成したユスティニアヌス帝の妻テオドラをご紹介します。

このテオドラという女性は、女優・踊り子出身と伝えられており、身分は決して高くありませんでした。むしろ、当時としては低い身分に属しており、皇族との結婚は認められておりませんでした。

ユスティニアヌスの前の皇帝は実子に恵まれなかったため、優秀だった甥を養子として皇太子にしました。この皇太子時代に彼はテオドラと出会い、激烈な恋に落ちます。惚れ込んでしまい、何とか結婚を認めてもらおうとしました。

しかし叔母(当時の皇帝の妻)から大反対され、その時点では断念します。結婚は認められなかったものの宮殿で生活をともにしていました。

反対者であった叔母が亡くなると、皇帝である叔父を説得してユスティニアヌスは法律を改正し、525年にテオドラと正式に結婚しました。ユスティニアヌス43歳、テオドラは28歳と伝えられています。527年夏に叔父が亡くなるとユスティニアヌスは皇帝となり、テオドラは皇妃となりました。

ユスティニアヌスは弱気で決断力に乏しい面がありましたが、そんな夫をテオドラはよき相談相手となり励まし、支えました。

特に有名なシーンが532年に首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)で勃発した「ニカの反乱」のワンシーンです。首都に暴徒が押し寄せた際にユスティニアヌスは逃げ出そうとします。側近たちも、暴徒を押さえるには兵隊が足りないことから脱出の方向で会議は進んでいました。

これにテオドラは冷静な口調ながらも決然と主張します。
「この世に生まれ落ちた以上、いつか必ず死を迎えます。生き延びることだけを望みとするなら、何も難しくありません。しかし皇帝・皇妃の衣を剥ぎ取られて生きながらえたところで、死ぬよりよかったと思えるものでしょうか。」

静まり返るユスティニアヌスと重臣たち。

「私は、「帝位は最高の死装束」という言葉に従いたいと思います。」

テオドラの毅然とした態度が、その後のユスティニアヌスと帝国の運命を決めました。
重臣たちは戦うべきか逃げるべきかの議論はやめ、どうやって反乱・暴動を鎮めるかを考えることに注力し、結果少ない兵力を効率的に運用し、反乱を鎮圧することに成功しました。

これによって皇帝権力を確立したユスティニアヌスは、領土の拡大とローマ法の整備の二大事業を実施することができるようになり、ユスティニアヌスの名前は古代の終わり、中世の始まりを示す偉大な人物として、残ることとなりました。

テオドラは孤児院や病院への寄付、売春婦たちへの福祉や厚生に尽力し、心ならずもそういった環境に置かれてしまった女性の生活の場として女子修道院を設立しました。

一方、テオドラは、キリスト教の中で異端とされる単性説(イエスは神性・人性の両方ではなく、人としての性質しかないと主張する説)を信奉していたことから、宗教界に混乱を生じさせたという面も指摘されています。

しかし、彼女の存在なくしてユスティニアヌスもその帝国も最盛期を迎えることがなかったことは間違いありません。

548年にテオドラはユスティニアヌスよりも17年早く病死してしまいます。もし彼女がもっと長生きをしたら帝国はもっと大きな発展をしたかもしれません。

ユスティニアヌスは自分の後継者を明確に定めないまま亡くなり、皇位継承争いから弱体化が進み、やがてササン朝ペルシアやイスラム勢力に領土を侵食されていくことになりました。

以上、本日の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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主要参考文献等リスト:
https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2
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