見出し画像

#0139【楊貴妃と玄宗(中国、8世紀前半)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週は悲劇の美女特集です。

初回の本日は、白楽天の漢詩『長恨歌』でも有名な「楊貴妃(ようきひ)と玄宗(げんそう)」のラブロマンスを取り上げます。

まず、長恨歌の一節を。
「回眸一笑百媚生:眸(ひとみ)を回(めぐ)らし一笑すれば百媚(ひゃくび)生じ 」(現代語訳:流し目に微笑みが加われば、いくつもの麗しい表情が生まれ)
「六宮粉黛無顏色:六宮(りくきゅう)の粉黛(ふんたい)顔色(がんしょく)無し」 (現代語訳:化粧を施した宮殿の美女たちも(楊貴妃の前では)顔色を失うばかりだった。)

楊貴妃、本名を楊玉環(ようぎょくかん)と言います。彼女が玄宗皇帝の寵愛を一身に受けたことにより楊一族は、大出世を遂げ、楊貴妃の従兄弟は総理大臣の地位にまで上り詰めました。

さらに長恨歌では、「遂に国の父母の心を「男の子よりも女の子が欲しいものだ」と傾かせたのだった。」と詠うのです。

過去、一人っ子政策の取られていた中国で何とか男の子を授かろうとしていた状況と全く逆の世相です。それほどに玄宗の楊貴妃に対する思いは強く、完全に溺れ切っていました。

玄宗は712年に27歳で即位してから一心不乱に国政に携わり、「開元(かいげん)の治」とよばれる安定した社会を現出したのでした。しかし、若くから長く国のトップに居続けた玄宗の緊張感に緩みが生じていきます。

いつまでも泰平の世が続くと思われた西暦740年、玄宗55歳、楊貴妃21歳の時に二人は出会いました。なんと、その時点では楊貴妃は玄宗の息子の嫁でした。

倫理的に許されそうもない状況でも、玄宗はなりふり構わず、息子から楊貴妃を取り上げます。その後の寵愛はすさまじく、それまで政治に振り向いていた玄宗の情熱は楊貴妃と注がれます。

彼女が喜ぶためならばと、南方から早馬でライチを取り寄せたり、彼女の一族を政治の場で引き上げたりしました。しかし、楊貴妃自身は悪女というような逸話は残されておらず、玄宗が一方的にのめり込んでいってしまったようです。

緊張感も倫理観も失った老いらくの恋とは恐ろしいものです。このような状況下で国が安定するわけがありません。

楊貴妃への寵愛をバックに権勢を振るう楊一族と軍事力を担う安禄山(あんろくざん)との間に対立が深まります。一方で、玄宗は安禄山のことも大変信頼しており、大きな兵力を任せていました。それに不安を覚えた楊一族は安禄山を追い落とそうとします。

安禄山も自分が滅ぼされるくらいならと反乱を起こすことにしました。755年のことです。安禄山の軍隊は国境警備を担っていた精鋭部隊です。都のぬるま湯に浸っていた軍隊をけちらし、首都長安へ突入する勢いを見せます。

玄宗は護衛兵に守られながら、楊貴妃や楊一族と一緒に長安から落ち延びていきました。しかし、道中で飢えと疲れに悩まされていた兵士の怒りが爆発。楊一族は惨殺され、玄宗と楊貴妃の下にも殺到します。このような事態に陥ったのは楊貴妃のせいだと騒ぐ兵士たちを前に、玄宗は楊貴妃に死を命じざるをえなくなりました。

楊貴妃は玄宗のためにと従容と死につきます。その姿は堂々としたものだったと伝わっています。そして人望厚かった皇太子が玄宗の代わりに皇帝に即位し、玄宗は半ば幽閉の身となります。

長安を陥落させることに成功した反乱軍でしたが、追い込まれて蜂起した安禄山に具体的な天下統一のプランもなく途中で反乱軍は内部崩壊して暗殺されます。反乱軍を引き継いだ史思明(ししめい)も途中で力尽きて763年に、一連の反乱は終息します。この反乱を、二人の姓から「安史の乱」と呼んでいます。

全てを失った玄宗は、762年に78年の生涯を寂しく閉じていました。

以上、本日の歴史小話でした!

========================
発行人:李東潤(りとんゆん)
連絡先:history.on.demand.seminar@gmail.com     twitter: https://twitter.com/1minute_history
主要参考文献等リスト:
https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2
※本メルマガの著作権は李東潤に属しますが、転送・シェア等はご自由に展開頂いて構いません。
※配信登録希望者は、以下URLをご利用ください。 http://mail.os7.biz/b/QTHU
========================

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?