西国疾走少女 1

 イカの胴体に手を突っ込んで軟骨をひっぱり出した。粘着質な音が響いたわりに水分は流れてこない。残っている内臓をこそげ出そうと、もう一度手を差し入れた。あれ、と思う。ざらりと手に吸い付いてくる感触。軟骨は取り除いたはずなのに、そこにもうひとつ硬い何かがある。強くつかんで、一瞬ためらった。不安の波が押し寄せる。いったい何が出てくるのだろう。

 ひと息に引いてみる。

 ずるりと引きずり出したものには、目玉がついていた。肌が一気に粟立つ。とっさに手放したそれが、シンクにごろんと転がった。

 丸々と太った魚だった。表面を覆う鱗の一枚一枚が、照明を反射して光っている。眼球はいきいきしている。でも死んでいた。

 速い鼓動のまま、魚をじっと見下ろす。

 イカの体内に入りきるぎりぎりの大きさだ。イカの口はちいさいのに、この魚は、どうやってここに入り込んだんだろう。いや、それよりも、どうやってここに留まったんだろう。イカは知っていたんだろうか。自分の中に、ずっとそれがあることを。

 まな板の上、イカの胴から、体液があふれ出てくる。堰(せ)き止めていたものがなくなり、どろりと伸びて、広がる。白く濁った液体は、辺りに青い匂いを放った。

 イカなんて何度もさばいたことがあるのに、魚が出てきたのははじめてだった。はじめての経験はいくつになっても怖れを伴う。ふっと、桐原のことを思い出した。

 脳の奥から、あの日々がじわじわと染み出してくる。最初は雪解け水のようだったのが、徐々に勢いを増し、ついには濁流となってわたしの脳をめぐりはじめる。

 となりで笑っている桐原、バス停にいて遠ざかっていく父の姿、理不尽な大人たちの言葉。遠くから、自分の息切れが聴こえてくる。

 中学生だった。わたしはスカートをひるがえし、夜の西国分寺駅に向かって疾走していた。恐怖などない。もうすぐ桐原に会える。ただその悦びだけ。サバンナを駆けめぐる動物のように、前を見て地面を蹴っていた。頬が熱(ほて)り、吐く息が湿った。あのころ、桐原といないときはいつも走っていたように思う。ゆっくり過ぎてほしい時間なんて、桐原といるときだけだった。月も星もない暗闇を突き進んでも、不安はなかった。まわりの風景もどうだってよかった。怖い大人の存在など頭をよぎりもしなかった。まだ、誰かをうしなうことについて真剣に考えたこともなかった。

 耳元でよみがえる息切れは、いつのまにか自分のものから桐原のそれに変わっている。

1

 当時のわたしは、母と妹と三人で暮らしていた。西国分寺駅から十五分ほどの場所にある一軒家で。一軒家といってもおもちゃみたいな木造の平屋で、部屋はふたつしかなかった。細い路地をはさんだ向かいには大家さんの畑があり、その先に武蔵野線の線路が走っていた。電車の音は夜遅くまで響いており、そのたびに我が家は軽くゆれた。右隣にはとある宗教の信者一家が暮らしていて、土曜の夜にはいつも荘厳な宗教歌が聴こえてきた。左隣にはうわさ好きの老婆が住んでおり、父が家を出て行ったときは何かと詮索してきた。それを母が露骨にいやがったので、それ以来、老婆と交流はなくなった。とにかく狭くて古い家だった。トイレはかろうじて水洗だったが和式で、なぜかトイレットペーパーホルダーが後方にあった。そんな家に、わたしは小学校六年から高校一年まで住んだ。

 桐原を思い出すとき、まず脳によみがえるのは喉仏だ。まさにできたてのそれは、他の男子より妙にでっぱって色っぽかった。桐原が歌うとき、笑うとき、つばを飲み込むとき、そのでっぱりは、コリ、コリ、と上下に動いた。なまめかしく、ゆっくりと。

 中二の四月、わたしの左の席に腰を下ろしたのは金井という陽気な小太りの男子だった。金井とは一年のとき委員会が同じだった。金井はいつものように下ネタを二、三しゃべってから教室を見回し、自分の列の後方に知り合いを見つけ手を振った。手をあげ返した彼のことを「桐原っつうの」と金井は言った。「一年の三学期に私立中から編入してきたんだよ」

 生徒たちの椅子がガタガタと鳴って、わたしと金井は前を向く。中年の理科教師が入ってくるところだった。またこの人が担任かと暗い気持になる。わたしは一度、彼に家の事情を相談したことがあった。個人面談のとき、前のめりで親身になって聴いてくれたからだ。担任は言った。「じゃあ今日、おれがおうちの人に電話してやろうか」その瞬間、おおげさでなく彼に後光が差して見えた。わたしは、すがれる手を探していたのかもしれない。その日は帰宅してからずっと電話を見てすごした。電話は結局鳴らなかった。翌日、わたしの顔を見て担任は「あ」と気まずそうな表情を浮かべたが、何事もなかったように授業に入った。それ以来わたしは大人を信じるのをやめた。

 担任がチョークで自分の名前を書いているすきに、さっき見た桐原という男子をふりかえる。何か心にひっかかるものがあって、その正体を確かめたかったのだ。桐原の後ろの席の子が、黒板を見るために身体を横にずらしている。桐原の脚は机に納まりきらず、通路にはみ出していた。朝の味噌汁に入れるアサリみたいに。そのはみ出した分くらいしか他人を受け入れない、容易に心を開かない頑なさが、上履きの先からにじみでていた。その後彼には教室でいちばん高い机が与えられたが、それでもいつも窮屈そうだった。

 なぜ桐原に惹かれたのか。どんなに考えをめぐらせても、色気としかいいようがない。色気を感じる相手は人それぞれだろうが、それは感じるものであると同時に、細胞や遺伝子の叫びのような気がする。その男とつがえという自分の核からの命令。でも中二のわたしがそこまで考えたはずはなく、ただ生き物のメスとして、順調に繁殖への準備をしていたということだと思う。

 最初の席替えで、わたしたちはとなりの席になった。番号の書かれた紙を手に机を移動すると、そこに桐原がいたので耳が熱くなったことを憶えている。机を合わせると、その段差のあまりの激しさに、同じ班になった金井が手を叩いて大笑いした。そういうとき桐原は「うるさいよ」と笑いながらたしなめるのだった。桐原のリュックは大きく、よそよそしかった。消しゴムは清潔で未知。桐原に属するものすべてがまったくの異物で、艶めいて感じられた。

 桐原は長い脚を持っていたが、走るのは速くなかった。バスケ部でも補欠だった。放課後、校庭を走る桐原を、教室から眺めた。疲れてきたときにうっすらひらく口が色っぽかった。桐原の黒髪は毛量が多く、すこし縮れて扱いにくそうだったのだが、その髪から汗のしずくが飛びちる様は、スローモーションでわたしの胸に染みこんだ。

 二学期、となりの席になったのはまた金井だった。桐原とは遠く離れてしまいざんねんだったが、休み時間になると彼は金井のところへ雑談しにくるようになった。わたしがいないとき、桐原はわたしの席に座っている。それは椅子だったり机だったりしたが、彼の身体とわたしの持ち物が触れている面を目にするだけで胸が高鳴った。戻ってきたわたしに気づくと桐原は「あ、ごめん」と言って立ち上がる。桐原の腰のベルトの位置は、クラスの誰よりも高かった。

 そのうちに、桐原と金井とわたし、それからミカという女子バスケ部の子と四人でいることが多くなった。しゃべるのはいつも金井とミカ。ふたりは同じ小学校から来た顔なじみだった。技術の時間には、よくミカが林檎味の大玉のアメをくれた。シュワシュワするそれを舐めながらわたしたち四人は、木材を削ったり何かの図を描いたりした。ミカは茶髪でこっそりピアスを開けていて、よく授業中にウォークマンで音楽を聴いていた。イヤフォンを肩からブレザーの袖に通して、ひじをついていれば傍目にはわからない。問題は指名されたときだ。ちかくにいる子がミカをつついて教えるのだが、そういうとき音楽が耳に流れているままのミカは「ハイッ!」と必要以上に大きな声を出すので、たまにばれてウォークマンを没収されていた。金井は英語の時間に「6」と言わなければならないときに必ず「セックス!」と言ってクラスの笑いと先生の怒りをかっていた。わたしと桐原はそんなミカや金井をなだめる役回りだった。職員室へ行くのにつきあったり、まったく授業を聞いていない彼らにノートを見せたりするのもわたしと桐原だった。

「二階ついてきて」とミカはよく言った。バレー部の高山先輩の姿をこっそり眺めるために、三年生の廊下をあてもなく歩いた。自分だけミカの好きな人を知っているのも悪いかと思い「わたしの好きな人は桐原なんだ」と言うと「知ってる、由井(ゆい)を見てればわかる」と笑われた。

2に続く

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一木けい

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