西国疾走少女 5
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自分だけ幸せではいけないような気がして、父に会いに行った。バス停まで迎えに来てくれた父は、想像よりふたまわり痩せていた。目がぎょろりと飛び出て、頬骨が高い。首には毛羽立ったタオル。汗なのか、酸っぱいような妙な匂いがした。
電灯の紐を引くと、心もとない光が四畳半を照らした。畳にマイルス・デイヴィスのCDとジョン・グリシャムの小説がちらばっている。ちゃぶ台の上には英字新聞。マグカップの跡が丸く残っている。室内に酒はなく、父ものんでいないようにふるまっていた。けれどわたしはのんでいると思った。それでどうということもなかった。父がわたしのすべてではなくなっていたからかもしれない。
「コーヒーのむか?」
袋入りコーヒーの粉末を空き瓶に移し替えながら父は訊いた。うんと答えて何気なく見ていると、父の手は陸に揚げられた魚のように激しくふるえて、粉を何度もこぼしていた。目を逸らした先に狭いベランダがあり、洗濯物がすこしだけ干してあった。
「ここは日当たりよさそうだね」
「あ? そうだな、洗濯物はよく乾くな」
「いいね、うちの庭は日が当たらないから。靴下が乾かなくて困る」
「そういうときはな」
と父は顔をこちらに向けた。そのとき動いた喉仏の形が、桐原のと似ていると思った。
「まずバスタオルを用意するんだ。それを広げてな、絞ったソックスをのせる。端からきっちりと巻いていく。そうすると大方の水分は取れる。それを干しとけば、乾くのが格段に早くなる」
「なるほどね、やってみる」
「やってみろ」
ちいさな冷蔵庫の脇に低い食品棚があり、そこにラーメンの袋があった。一食分を一度に食べ切ることはできないようで、半分に割った麺と調味袋が残っていた。
「あんときアメリカに行っとったらなあ」
百万遍もした話を、父はまたする。
母のお腹にわたしができたから、父は大学院をやめた。自分のやりたかったことを断念して、やりたくないことをやらなければならない日々がはじまった。
「おまえのせいで俺の人生めちゃくちゃだよ」
冗談めかして父は言う。聴きなれたセリフだから、もはやなんとも思わない。
以前アルコール病棟の喫煙所でも同じことを言われた。近くにいた断酒仲間は苦笑し、「娘さんがいなかったらたぶん、もっとめちゃくちゃでしたよ」と言った。
コーヒーを二杯のみおえると、父はわたしをバス停まで送ってくれた。自転車で。ペダルをキーコキーコ鳴らして。
「歩くより自転車の方が楽なんだよ」
「わたしがこぐから、お父さんうしろに乗ったら?」
「そんな恥ずかしいことができるか」
歩くと足のろれつが回らないんだね、と軽口を叩こうと思ったがやめた。父の眼が徐々に正気を取り戻し、鋭さを増しており、それはわたしにとって必ずしもよい兆候ではなかったから。
トタン屋根に雨粒の当たる音がしはじめる。黄昏の停留所にバスはやってこない。
「タバコ持ってくりゃよかった」
「もうここで大丈夫だよ。お父さん、帰っていいよ」
「シケモクはまずいんだよな」
「傘買ってこようか?」
「いらん。傘さして自転車なんかこげん、転んだら終わりだ」
父と並んで道路を眺めた。雨はどんどん強くなり、乗用車の撥(は)ねる水しぶきが白さを増す。
「おまえ」と言って父は一度、空咳をした。「つきあってる男がいるんだろ」
「だれから聞いたの」
「だれから聞かんでもわかる」
父は言った。バスはなかなか来ない。
「数学のできる男か」
「うん」
「そうか」
バスが来た。立ち上がろうとして父はよろめいた。慌てて手を取る。細くて長い、きれいな指だった。おーすまん、と言って父はさらりと手を離した。
ドアがひらく。ステップを踏んで、車内に乗り込んだ。
父が何か言ったのをかき消すように、背中でバスの扉が閉まった。呆然と突っ立っていると、整理券をお取りくださいとアナウンスされた。はっとして白い券をひっぱる。最後列まで、ふらふらと歩いた。父が見えた。細い身体で、雨に濡れながらこちらを向いて立っている。
まあ、おまえらがおったから、おもしろい人生やったかもしれん。
バスが動き出す。父はどんどんちいさくなっていく。
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