合図の音

陶磁器の器は、ガラス質の石の澄んだ音がする。
初めてその音色を聞いた時、ハンドベルのような音だと思った。
音は空気を伝い遠くまで届いてゆく。きっとだから、宗教的儀式に鐘や鳴らしものが使われているのではないだろうか。もう見えないところに行ってしまった人たち、ご先祖様にまで、音は届くということなのではないだろうか。

遠くまで届くその音は何のために鳴らされるのだろうか。
古代から鐘は宗教的儀式などに用いられてきた他、号令の合図や時を告げる合図として鳴らされてきた。

身近なところで言うと、玄関の呼び鈴、今ではカメラのついたインターフォンが主流だけれど、あれはベルだ。
高野山にいた頃、梵鐘が1日に6度時を告げていた。
火事の時に鳴らされるサイレン、あれもそもそもは火の見櫓に置かれた鐘を打ち鳴らして、遠くまで知らせるものであった。

時報にしろ、合図にしろ、音が空気を伝って「伝える」ためにベルは鳴らされる。

うちの母は合図の意味でベルを鳴らしていた時期がある。

以降、わたし個人にとってベルは許しの象徴となった。
ベルを鳴らす母を見て、わたしは、どうしても普通に人ができることができないことで悩み、工夫して乗り越えようとしている母の姿を見た。
普通に人ができることであればあるほど、できないと怠けていると思われたりする。でもどうしてもできない、苦しい、と言う作業がその時期、母にとって家事だった。母はとことんやらないと気が済まない人なので、一度掃除を始めると徹底してやる、中途半端に終わらせることができないので、とても体力がいるのだ。だから、それをちょうど良いところで切り上げて、次の作業に向かうことが難しい。ひとつひとつ全部終わらせていたら日が暮れてしまう。
だからキリの良いところで合図のベルを鳴らしていたのだろう。

今では、わたしも普通に生活することが苦手であると気がついた。
他の家庭がどうであるか、実際にはわからないけれど、きっとわたしはおかしな生活をしていると思う。家に帰るとそのままベッドに倒れ込んで目が覚めたら文章を書いたり、やることやって、朝がきたらお風呂に入るような毎日だ。忙しい今の時期だけではなく、基本的にこういう生活だ。

一つだけ、絶対に伝えたいことは、わたしは碗琴道を「食事」から感じられた儀式性を表現しているけれど、それが、規則正しい食事だの、栄養バランスの採れた食事だの、食べ物に感謝しましょう、だのを推奨するために作った作品では無いと言うこと。
わたしは、美しく整えられた食卓であろうと、乱雑にお惣菜を並べられた食卓であろうと、その場所が用意されると言うことに興味があった。
そして、食べる所作はどんなに高貴な人も貧しい人も基本的には同じで、インプットされたその営みに興味があった。

碗琴道を日々やりながらも、規則正しい食事をしていない、煙草を吸っている、ジャンクフードを食べているだの、大きなお世話です。
わたしが「食事」から感じた尊さは、何を選んで食べるかや、健康的であるかなどは関係なく、苦悶しながらも自分なりの方法を見つけ、それがそれぞれのライフスタイルとなっていくその姿の中に感じたものだ。

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