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酸素はあなた。

他者に興味を持てない、
と言うと随分厨二病的な痛さを感じる。
言うなら感情が無い、のようなそんな感じ。

それに実際そんな奴はいなくて、自分と他者の関係に皆興味津々で、どうにか自分を大きく見せようとしているはずだ。

それは酸素がないと人間が生きていけないのと同じくらい普遍的なこと。

例に漏れず私も他者を生活の中で常に感じており、間違っても自分が他者に興味がない人間だとは思わない。

寧ろ他者を通さなければ自分は見えないものなのだから、矢印が自分に強く向いている人ほど他者にも同じくらい強い意識が向いているはずなのではないだろうか。

ただ私の「他者の見方」が分かりづらいのかもしれないとは思う。

私は他者がどのような思考や感情の傾向があるか、今現在、そしてこれからどのような気持ちを生み出すか、を考えることはほぼ無い。

それよりも、私がこれを言ったらどう思うか、私がこれをするとどう感じるか、と殆どの出発点が全て私であるのだ。簡潔に言えば、自己中心的というだけなのだが。

言い訳をする気はない。
この考え方の何が悪いのかよくわからない。
他者を貶しているわけではないし、寧ろ尊重してもいる。

私は私、あなたはあなた。
全てを受け入れてる、でも私とは違うけどね、
と思っているだけ。

誰にも迷惑はかけていないし、不快な思いをさせているつもりもない。

それにもかかわらず、他者に興味がないということをネガティブな意味合いで言われることが、何となく居心地が悪い。
性格が悪いと言われているように感じる。
その通りかもしれない、確かに私は性格が悪いのかもしれない。

そんなことを言ってくるあなたも同じように性格がひねくれているとも思うがどうだろうか。

私は人に優しくありたいと思っている。
自己犠牲的な気持ちもあるし、隣人愛的な思想も持ち合わせているつもりだ。

差別的な見方をすることなく公に平等であると常々教育の場では評価されてきたし、特にそれを意識的に作っているわけではなく、良くも悪くも私の見方はフラットであり続けられる。

私のキャパシティに他者という空き容量がないだけで、もっと生活に、心に、体に、人生に余裕があれば、もっと興味を持っているようにも見せられると思うが。

批判するなら、余裕をくれよ。

ネガティブであることも批判しないでよ。

自己肯定感が不足しているところを突かれれば突かれるほど、痛くてもっと流れ出てしまうもの。努力してもいないところを褒められても、そんな上手に受け止められないの。
だって自信に根拠がないじゃない。
嬉しいけれど、上手に受け取って咀嚼することができないの。

素直に褒められた言葉を受け取ることも、
あまりに難易度が高すぎる。

適当に受け流すことはいくらでもできる。
他者を不快にさせないような対応もいくらでもできる。別に何とも思わないし、嬉しいかって言われたら少しくらいはそう思うけれど、
次の瞬間には気化してるくらいの質量感。

でも、
本当に大切なあなたに言われた言葉だから、
1mgも残さず取り込みたいのに、
それがうまくできない。
焦れば余計に漏れ出てしまう。

ああ、あとどれくらい、
私はあなたから酸素を貰えるのだろう。
貰えば貰うほど残りは減っていくのに、
もっと、もっと足りなくなっていく。

残量がゼロになるまでに次の酸素を探すべきだけど、違う空気を吸ってまで生きる気はない。

無くなったらそれまで。

それまでに私は、
あなたに何をあげられるのだろう。
そして何を成し遂げられるのだろう。

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